日本史で「生き残りをかけた戦い」というと武家の話がほとんどです。
しかし、公家にも公家の戦いがあります。
いかに名誉を保ちつつ、武力を使わず(使えず)に家を守るか――。
そんな様子が大河ドラマ『麒麟がくる』で描かれたのが近衛前久(このえ さきひさ)。
本郷奏多さんが演じられ、見た目は色白かつ線が細いようでいて芯はシッカリしている。
それもそのはず、この前久、史実でも積極的に戦国武将と関わりを持ち、時代の荒波を生き抜きました。
戦国時代の公家としてはちょくちょく名前が出てくるので、すでにご存知の方も多いかもしれません。
では、いったい本人はどんな人物だったのか。

近衛前久『贈答百人一首』/wikipediaより引用
慶長17年(1612年)5月8日に亡くなった近衛前久の生涯を振り返ってみましょう。
謙信の進出を助けるため関東へ
近衛前久は藤原北家(藤原道長等を輩出)の流れを汲む近衛家の長男として、天文5年(1536年)に生誕。
18歳で左大臣・関白・藤氏長者(藤原氏のリーダー)になり、19歳で従一位になるという超速出世をしています。
しかし、彼の面白いところは出世のスピードではありません。
関白という臣下でトップの位置にありながら、自ら北陸や関東にまで行っているなどのフットワークの軽さと、足利将軍から名前にもらった「晴」の字をあっさり捨てている度胸の良さでしょう。
こういう人は現代の我々にとっては面白い存在ですよね。
名門らしからぬ切り替えの早さは前久の大きな長所でもあり、後に頭痛の種にもなりました。
北陸や関東に出向いたのは、上杉謙信の関東進出を助けるためです。
そうすることで東国が定まり、その後に都の守護や資金繰りを助けてもらうつもりだったのでしょう。

上杉謙信/wikipediaより引用
ちなみに、最初は謙信が永禄二年(1559年)に上洛した際の帰路に同行するつもりでした。
しかしこのときは正親町天皇の即位式が翌年正月に控えており、
「現役の関白ともあろう人が、即位式をすっぽかして東へ下るなんてとんでもない!」
と、当時の将軍・足利義輝などに咎められて延期しています。まあ当然ですね。
前久は切り替えが早すぎて、他人への影響や世間の評判への配慮が二の次・三の次になりがちなところがありました。
その対象に天皇まで含まれるのがまたスゴイところです。
※なお、足利義輝の正室は前久の姉妹だったため、彼らは義兄弟にあたります
越後にずっと居てもいいものか……
即位式が終わった後、留守中のあれこれに関する事務処理等があり、近衛前久が越後へ出発したのは永禄三年(1560年)9月のことでした。
そこからおよそ二ヶ月後、11月に越後へ到着しています。
謙信は当時関東へ出征中で、留守を預かっていた上杉家の家臣たちが前久をもてなしていたようです。
この東下にあたり、前久は謙信と血判状を交わすほど気合いを入れています。
謙信との個人的な親交も深め、謙信が地元に帰っている間には関東の前線に残るなど、公家らしからぬほどの度胸を見せました。
そういうところが武家にも信頼されたのかもしれません。
前久の滞在先は厩橋城や古河城などでしたが、由良氏や太田氏など、上杉方についていた関東の大名が前久の世話をしています。
前久はこの頃、花押を武家様式に変えているので、素で勝負に出たものと思われます。
しかし、謙信の関東平定はなかなか進まず、さしもの前久も「ここにずっといてもいいものだろうか……」と考え始めました。
当時の常識的には致し方ないことなのですが、謙信は生涯
「自分の本拠は春日山城であり、長期間離れることはできない」
というスタンスを貫いています。

春日山城/wikipediaより引用
関東平定という大きな目標を掲げていることを考えると、現実的ではありません。
ただでさえ距離や山越えという物理的な障害がある上、冬期は雪で身動きしにくくなるのですから。
当時の交通事情で、わざわざ大幅な時間のロスを何度もするというのは、長期的にかなりのマイナス要素になってきます。
これが後北条氏など、謙信と敵対する遠隔地の大名らから見ると
「適当に相手をしておけば、謙信は勝手に帰っていく」
となるわけです。
実際、永禄四年(1561年)から翌年にかけて謙信が10万ともいわれる大軍を率いて小田原城を包囲し、大きな戦闘をせずに引き揚げた後、後北条氏は兵を挙げて北関東へ進みました。

当時の後北条氏当主である北条氏康/wikipediaより引用
呼応する関東の大名もおり、謙信が効果的だと思っていたであろう”10万の兵を動員する力”や”謙信が現役関白を味方につけている”という点は、全く通用しなかったことになります。
これは謙信の性格や、上杉氏が藤原氏の流れを汲むこと・謙信の実家である長尾氏がその家老であったことなどが影響していると思われます。
自分の家が公家の血や権威を重んじているから、相手もそれに恐れ入るだろう……というわけです。
しかし、関東の大名にはそういった権威が通じませんでした。
永禄の変
近衛前久は思い切って京に戻りました。
謙信からはかなり引き止められたようですが、それを振り切っての帰京。
「血判状まで交わしたのだから、前久は関東平定が成るまでこちらに留まるべきだ」と、謙信は考えていたのでしょう。
しかし、前久は前線付近まで来る度胸はあっても、京都をいつまでも空けておくわけにはいきません。

平安京/wikipediaより引用
この時点で成長した息子でもいれば、関東に残しておくという手もあったかもしれませんが……前久自身がまだ20代半ばの若者でした。子供が生まれたのも、この東下から帰京した後のことです。
帰京後は鷹狩や乗馬など、アクティブな趣味に没頭するようになったといいます。
前久の動物好きは生涯変わらなかったようなので、元々の性分や好みもあるのでしょう。
同時に次々と子供が生まれているあたり、いろいろと鬱憤が溜まっていたのでは……?という感もあります。
前久が関白として、公家としての暮らしに戻ってしばらく経った二年後の永禄八年(1565年)、今度は歴史的事件が起きます。
【永禄の変(足利義輝殺害事件)】です。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用
実行犯である三好三人衆たちは、前久に政治的協力を求めてきました。
先述の通り、義輝の正室が前久の姉妹です。彼女がこの変から生き延びていたことを考えると、面の皮が厚いとしか言いようがありません。
ちなみに、義輝の母・慶寿院は前久の叔母であり、こちらは変の際に自害しています。
前久は、叔母と義理の弟を殺し、実妹に命の危険を感じさせた相手に脅迫されたわけです。
武力をほとんど持たない彼が、三好勢の味方につく以外の選択肢はなく……。
この辺りの政治情勢は目まぐるしく立場が入れ替わり、非常にややこしいのですが、簡単にまとめますと以下の通り。
【永禄の変後の政治情勢】
1.三好勢が十四代将軍として、義輝のいとこである足利義栄を担ぎ上げる
↓
2.奈良一乗院にいた義輝の実弟・義昭が幕臣たちに救出される
↓
3.義栄は上洛しようとするが、三好三人衆と松永久秀が仲間割れして京都に入れない
↓
4.義昭、各地の大名に後ろ盾になってもらうため転々とする
↓
5.義栄に将軍宣下が行われるが、まだ京都に入れない
↓
6.京都に入れないまま義栄が病死
↓
7.義昭、織田信長のもとに身を寄せる
↓
8.信長が義昭を奉じて上洛
↓
9.義昭に将軍宣下
という感じです。
永禄の変は永禄八年(1565年)5月、信長と義昭の上洛が永禄十一年(1568年)9月ですから、三年以上もの間にわたって将軍位が宙ぶらりんになっていたということになります。

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用
義昭を救出した立役者としては、細川藤孝や三淵藤英、和田惟政などがよく知られていますね。
このように将軍位が空いている間も、当然のことながら朝廷は変わらず動き続けていました。
正親町天皇から前久に「決裁せよ」と命じられた事件もいくつか起きています。
2つほど見てみましょう。
浄土宗のトラブル
一つは、宗教絡みのトラブルです。
永禄八年、浄土宗誓願寺の長老・泰翁が、かねてから親交のあった公家・山科言継の斡旋で参内することになり
「誓願寺は我々の末寺なので、勝手に参内するのはけしからん」
と言ってきたことで話が揉めました。
彼らは五摂家の二条家と関係が深かったため、格下である山科言継のおかげで末寺が引き立てられていくことに反感を持ったのでしょう。
また、三河における布教の主導権なども争いの理由となったようです。
そこから互いに自分たちにとって先例の記録を探したり、他方のそれを否定。
これに対し、同じ浄土宗の寺院である円福寺・三福寺あたりと話が長引き、途中で
「埒が明かないので、新しい将軍が決まったら幕府に決裁してもらおう」
という意見が出るほどでした。
その影響で、当時は近江にいた義昭に対し、二条家・円福寺からコンタクトが取られていた様子。

足利義昭/wikipediaより引用
しかしこれはさすがにやりすぎで、前久が注意しています。
名誉という形のないものが主題なだけに話は長引きましたが、結局は泰翁が弟子たちと共に京を出て、三河へ行くことで収まりました。
三河では徳川家康が彼らの便宜を図ったようで、この縁がのちのち前久にも繋がってきます。
久我事件
もう一つは永禄十年(1567年)の【久我事件】です。
こちらは詳しいことがわかっていないのですが、どうも女官絡みの密通事件だったようで。
・誠仁親王の女官が二人出奔
・正親町天皇が「面目を失う」と評している

正親町天皇/wikipediaより引用
・世間の噂になった
・公家の久我通俊(通堅)が疑われている
・正親町天皇が「通俊を厳罰に処したい」と強く示した
という点が伝わっており、おそらくその手の不祥事だと思われます。
通俊は前久のいとこだったので、前久はなんとか軽い処分で済ませたかったようですが……最終的に、通俊は京都から追放されてしまいました。
その後は許されず、天正三年(1575年)に堺で亡くなっています。
まだ30代の若さだったようで、もしも冤罪だとしたら実に気の毒な話です。
歴史の流れに大きな影響を及ぼすものではありませんが、このような日常の事件を裁くのも、関白である前久の仕事でした。
では話を歴史の表舞台に戻しましょう。
本願寺を出て信長へ接近
将軍になった義昭は、その地位にふさわしい働きをしようと動き始めます。
兄の無念を晴らすため、三好三人衆らを討つことも含まれていたでしょう。
そこでまず「前久は兄上の殺害に一枚噛んでいるに違いない!!」(意訳)として、前久を朝廷から追い出してしまいました。
これはなぜかというと、当時の公家と武家の結びつきによります。
義昭は、近衛家にとっては政治的ライバルにあたる二条家との関係を深めていました。となると、前久は親戚ではあっても邪魔になります。
そんなわけで前久は関白の座も奪われてしまい、仕方なく縁戚の赤井直正や本願寺に身を寄せました。

赤井直正イメージ(絵・中川英明)
信長とは対立ポジションですね。
しかし、前久は信長と喧嘩するつもりはありませんでした。
義昭と信長の仲が険悪になり、信長を包囲する動きが見えてきた頃、本願寺を出ています。
信長にとっても、前久を味方につけるメリットは多々ありました。
前述の通り、義昭・二条家というラインができていましたので、信長としては同じ五摂家かつ筆頭格の近衛家の人間である前久は、非常に強力なカードになるわけです。
ここで多少恩を売っておき、あとは人柄や能力を見極め、問題がなければ手を結びたいところです。
そんなわけで天正三年(1575年)、信長の奏請により、前久は帰京することができました。
島津からの鷹は信長へ!?
その後、前久と信長は公私両面での付き合いを始めます。

織田信長/wikipediaより引用
歳も近く、共に鷹狩りを趣味としていたため、打ち解けるのも早かったようです。
物品や馬・鷹などをよく贈りあい、互いの獲物を自慢しあったりもしていたそうで。何それかわいい。
また、前久は鷹狩をテーマにした歌集『龍山公鷹百首』も編述しています。
自らも乗馬を趣味とすることもあって、馬術や馬具についても武家顔負けの慧眼をもっていたようです。
島津義久・島津義弘に対し、自ら選んだ馬具を送ったこともありました。
近衛家は九州に多くの荘園を持っていたため、九州各地の大名と代々のお付き合いが続いていたのですね。
その中でも島津氏との付き合いは密接なもので、前久と義久は長年に渡って文物のやり取りをしています。

島津義久像/wikipediaより引用
島津氏からは、名産の大鷹がよく贈られてきていたとか。しかし、それはいつも信長に所望されて、前久の手元には残らなかったといいます。
もちろんただカツアゲしたわけではなく、信長は前久に名馬をよく贈っていたそうですから、win-winといったところでしょう。
前久は信長から馬をもらうと、すぐに自ら試乗していたそうです。これもまた、なんとも微笑ましい話ですね。
石山本願寺との交渉役に抜擢
かくして信長の信頼を得た前久は、九州方面の大名や本願寺との連絡・折衝役を任されます。
薩摩に行った際はちょうど春だったこともあり、歌会や花見などでかなりのもてなしを受けていました。
一方で島津氏と伊東氏の戦に参戦しようとして、義久にきつく止められたこともあります。息子の近衛信伊にも似たようなエピソードがありますので、気性がよく似た父子だったようです。
天正八年(1580年)3月に始まった石山本願寺との交渉は難しいところでしたが、前久は本願寺のトップ・顕如の長男である教如を猶子にしていたため、いわば身内でした。
正親町天皇からの勅命による講和という形で現地へ向かっています。

数多の川に囲まれ天然の要塞だった石山本願寺(石山合戦図)/wikipediaより引用
前久はあくまで”織田家の使者”ではなく、”天皇の命を受けた朝臣”として本願寺との交渉に臨んだのです。
既に石山本願寺と織田家の対立は十年近くに渡っており、その間に信長は延暦寺や長島本願寺に対して苛烈な対処をしていましたから、本願寺側が警戒するのも無理のないこと。
そこで信長は、身内かつ関白経験者の前久が実際の交渉にあたることによって、本願寺の面子を保ちつつ、心情を和らげる効果を期待したのでした。
本願寺側でも、この時点では長期戦を続けるのも厳しい状況になってきていました。
天正六年(1578年)の第二次木津川口の戦いにおいて、信長に味方した九鬼水軍が、本願寺に兵糧を運び入れていた毛利方の水軍に壊滅的な打撃を与えていたことなどが理由です。

九鬼水軍を率いた九鬼嘉隆/wikipediaより引用
天正八年閏3月に講和の方針がまとまりましたが、教如をはじめとした若い世代の中には、石山本願寺での籠城を続けるべきだとする人々もいました。
前久は引き続き、彼らの説得にもあたったものと思われます。
その苦労がたたってか、同年4月には腫物で交渉の現場からは身を引きました。
”腫物”とは、皮膚にできるしこりやコブ、膿が出るできものなどのことです。
現代でいえば、ストレスで肌荒れを起こしてしまったというところでしょうか。「たったそれだけで?」とも感じられますが、不浄を忌む公家社会では大事だったのでしょう。
前久は石山から引き上げ、教如に対しは手紙で「講和に応じなさい」と説得を続けます。
その甲斐あって、同年夏には教如派も石山から退去しました。
こうして前久は、信長にとって大きな役割を果たしたのです。
甲州征伐へも同行
石山本願寺の説得に成功した近衛前久。
信長はことのほか喜んだらしく、
”信長殿から「天下が定まったら近衛家に一国あげるね!」(超訳)という約束を取り付けた”
と息子・信伊に当てた手紙の中で書かれています。
公的に有能で、私的にも馬が合う相手となれば、大盤振る舞いしたくなるのも自然な話ですね。
その後も信長の意向を受けて、大友・島津間の講和のために九州へ行ったり、【甲州征伐】に同行したりしています。
甲州征伐とは武田勝頼を滅ぼした一戦ですが、もちろん戦力としてではありません。

武田勝頼/wikipediaより引用
ハッキリとした同行理由は不明ながら、かつて謙信に期待をしてアテが外れた前久としては、感慨深いものがあったのではないでしょうか。
あくまで私見ですが、信長が甲州征伐の帰路において、富士山や周辺各地の名所を見てまわったことと関係があるかもしれません。
信長は出陣の時点で
「帰りは富士山を見に行こう。折角の機会だから、前久や馬術に長けた公家衆に、東国と富士山を見せてやるのも悪くない」
というようなことを考えていたのではないでしょうか。
富士山は竹取物語にも登場しますし、公家の間でも広く知られていたはずです。
このとき他に同行した公家は、
・日野輝資
・飛鳥井雅敦
・烏丸光宣
・正親町季秀
の四名です。
このうち飛鳥井雅敦以外の三名(前久を入れれば四名)は、信長が行った軍事パレード”京都御馬揃え”にも公家衆として参加していました。
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京都御馬揃え|信長の家臣たちが勢揃いした軍事パレードは衣装もド派手だった
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ということは、全員ある程度の体力や馬術を身につけていたはずです。
帰路で信長は軍を解散し、公家たちがどこで信長と別れたのかはよくわかりません。
そんなこんなで、織田家と近衛家の仲は長く続くかに見えました。
おそらく信長も前久も、それを望んでいたでしょう。
しかし、そこで大事件が起きてしまいます。
【本能寺の変】です――。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用
本能寺の変
親友・朋友・戦友であった信長を突然失ってよほど悲嘆したのか。
前久は髪を落として僧になってしまいました。
豊臣秀吉や織田信孝からは「近衛邸から明智軍が発砲したらしいですね^^」(※イメージです)とあらぬ疑いをかけられてますし、つくづく争いの世が嫌になっていたことでしょう。
また、どさくさに紛れて
「近衛家ばかり信長に贔屓されてずるい! 信長がいなくなった今、領地を自分の家に分けてもらおう」
と考えた公家が何人かいたそうで、前久は京都で四面楚歌に近い状態でした。
信長が前久に与えた領地の中には、もともと別の家の土地だったところもあったようなので、こちらの場合はむしろ正当な主張ですが。
ともかく自分と家を守るため、その後の前久は徳川家康に近づいて庇護を求めています。

徳川家康/wikipediaより引用
このときもわざわざ浜松まで行っているので、フットワークの軽さは変わっていなかったようです。
天正十一年(1583年)には家康の取りなしで帰京が叶いましたが、翌天正十二年(1584年)には家康と秀吉の対立が深まってしまいます。
前久は早々に奈良へ避難。
【小牧・長久手の戦い】では大いに迷ったことでしょう。
政治上の駆け引きは得意でも、公家である前久には戦の経過までは読めません。
しかし日和見で終わるよりも、秀吉に賭けようと思ったのか。
息子・信伊を連れて美濃で対陣中の秀吉に陣中見舞いをするのです。
小牧・長久手の戦い
小牧・長久手の戦いにおいて、当初、戦闘で有利だったのは家康の方でした。
しかし、秀吉のほうが政治的には上でした。

『小牧長久手合戦図屏風』/wikipediaより引用
家康の立場は、”信長の次男である信雄の後ろ盾”というものだったことがポイントです。家康自身も信長の同盟者でしたし、これについては特に問題がありません。
秀吉はここで「戦で完勝できないなら、戦の大義名分をなくしてしまえばいい」という発想の大転換をしたのは戦国ファンにはお馴染みですね。
織田信雄と単独で講和交渉をすることによって、家康が兵を出す口実をなくしてしまうのです。
仕方なく家康は三河に帰り、事実上の敗北を容認。
秀吉への人質として次男・於義丸(後の結城秀康)を送り、秀吉・家康間の講和も成立しています。
ここで秀吉にとって重要になってくるのは、
「家康や他の東国大名を、どうやって自分に従わせるか?」
という点です。政治外交では上回ったものの、戦で勝ちきれなかった以上、他の手を使わなくてはなりません。
そこで目をつけたのが、自身の官位(官職と位階)を上げ、権威で他家を従わせることでした。
関白相論
足軽とか農民の出身と言われる豊臣秀吉。
元の身分が低すぎるため、いきなり高い位をもらうと逆に反感を招いてしまいます。
まずは従五位下・左近衛権少将という公卿の入り口でもある官位を獲得。
そこから急激に官位を上げていき、公家たちもそれに伴って押し上げられていきました。
前久に近いところでですと、
豊臣秀吉が権大納言→内大臣
近衛信伊が内大臣→右大臣
二条昭実が右大臣→左大臣
といったように、一つずつずれていったのです。
その後、秀吉と親密にしていた菊亭晴季が右大臣を望んだため、
近衛信伊が右大臣→左大臣
二条昭実が左大臣→関白
となりました。
さらに秀吉は「信長様が右大臣という官職を頂いた後にあのようなことが起きたので、右大臣は縁起が悪い。右大臣を飛ばして左大臣を頂きたい」と言い出します。
これは信伊に「左大臣の座をよこせ!」と言っているも同然。
さらにいえば、左大臣の上は関白しかないのですから、二条昭実の官位も危なくなってきます。

二条昭実/wikipediaより引用
ここで信伊が昭実に「関白を譲ってほしい」と言い、二人の間で少々揉めました。
【関白相論】と呼ばれているやり取りです。
つくべき官位がなければ、無位無官になってしまう。信伊は当時21歳という若さですし、そうなるわけにはいきません。
しかし昭実もそれは同じ。「二条家では関白が一年以内に辞めた例はないので」と言い返しています。
そんな中、秀吉はこう言い出します。
「信長様が前久殿に贈ったという刀を見せていただきたい」
これはどういうことか?
というと「信長様の遺品と関白の地位を譲ってくれれば、近衛家の味方をしてもいい」という裏取引の提案です。
前久も、さすがに最初は突っぱねますが、財力に物を言わせて秀吉が畳み掛けてきます。
「一度関白にしてくれれば、その後、一年以内に信伊殿へお譲りする。近衛家の知行を1000石増やし、他の四摂家についても500石増やしましょう」
こうしたプレッシャーに耐えきれず、前久はやむなく秀吉を猶子としました。
秀吉の関白就任を認めたも同然です。
秀吉が関白にこだわった理由
秀吉が正親町天皇に関白就任を申し入れると、正親町天皇は五摂家に対し、それを認めてもよいのか、と下問(かもん・質問)を行います。
二条昭実も、ここで諦めて関白を辞退しました。
歴史上、五摂家以外の者が任じられることがなかった関白職が、初めて他家どころか出自も怪しい秀吉のものになってしまったのです。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
その悔しさは推して知るべし。
ちなみに、職務上の権限であれば、秀吉は左大臣就任でも問題なかったと考えられます。
左大臣の上は太政大臣と関白しかありません。
前者はいわば名誉職であり、後者は天皇を補佐しながらも、公家の最高会議である太政官には参加しないという特質がありました。
その太政官のトップが左大臣ですので、秀吉が”政治に介入すること”を目的としていたのなら、関白ではなく左大臣のほうがむしろ適していたともいえます。
しかし、秀吉がほしかったのは朝廷内での地位ではなく、日本全国を従えるための権威です。
となると、関白という地位と字面が必要不可欠だったのでした。
さらに秀吉は、前久の娘・前子を自分の養女として入内させます。
前子は後の後水尾天皇や近衛信尋を産むのですが、それは同時に”豊臣家が皇室の外戚になった”という意味になりました。
これは公家社会の特殊なところですが、実際の血縁よりも入内したときの立場が重視されるからです。
近衛家にとっては、娘を踏み台にされた形になるわけで……これも、前久や信伊にとっては屈辱だったことでしょう。
こういった経緯と若さや性分が重なったためか、信伊は突拍子もない行動に出てしまうのですが、それは以下の記事で触れていますので後ほどご参照ください。
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近衛信尹の生涯|秀吉に関白の座を奪われ 心を病み薩摩に流され返り咲く
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信長七回忌での追悼歌
隠居の身ということもあり、前久はその後静かに暮らしていたようですが、ひとつ目立つ動きとして、信長の七回忌があります。
信長を悼んで『なむあみだぶ(ふ)』の一字ずつで始まる六首の歌を詠んでいるのです。
ちょっと長くなりますが、載せておきましょう。

織田信長/wikipediaより引用
適宜漢字などを読みやすくしてあります。
【前久から信長への追悼歌】
(な)
嘆きても 名残つきせぬ 涙かな なお慕わるる 亡きが面影
(む)
睦まじき 昔の人や 向かうらむ むなしき空の むらさきの雲
(あ)
あだし世の 哀れ思えば 明け暮れに 雨か涙か あまる衣手
(み)
見てもなお みまくほしきは みのこして 峰に隠るる 短夜の月
(た)
尋ねても 魂(たま)のありかは 玉ゆらも たもとの露に 誰か宿さむ
(ふ)
更くる夜の 臥所あれつつ 吹く風に 再び見えぬ ふるあとの夢
五・七・五・七・七が全て始めの一文字と同じ字で始まる、技巧的になかなかにスゴイ歌です。
しかしそれ以上に、これらの歌からは親しい友の死を嘆く、前久の素直な心情が詠まれている気がします。
本能寺の変の動機が「前久黒幕説派」の方からすると、これらの歌もカムフラージュに見えそうですが……。
それならわざわざ六首も詠まず、一首だけ詠んで「信長の死を悼んで」とでも詞書(和歌が詠まれた状況などに関する注釈)をつけておけばいい話です。
信長の七回忌の頃には、とっくに秀吉の天下になっています。その段階で、六首も読むほど気合を入れて、信長を悼む”ふり”をする必要はないでしょう。
そうなると、やはり前久は純粋に友人の死を悼んだのではないか……という気がします。
文字通りあっちこっちを駆けまわった前久には、他に友情を温めた人もいなかったでしょう。
また、江戸時代に入ってからのことですが、親交のあった津軽家の姫が亡くなった際に、同じく『なむあみだぶ』で始まる六首を詠んだとされています。
こちらについては詳細が不明ながら、もしも事実だとすれば、前久はかなり情の濃い人だったのでしょう。
謙信と血判状を交わすほどの入れ込みようやフットワークの軽さなどからしても、その可能性は高いのではないかと思われます。
関ヶ原の戦い後に島津勢を迎え入れ
最後に、時系列が前後しますが、関ヶ原の戦いについても少々触れておきましょう。
前久は公家の上に隠居の身ですから、政治的な動きはあまりしていません。京都に残っていた東軍方の妻子をかくまったくらいです。
むしろ、戦後のほうが忙しかったと思われます。
既に何度か触れましたが、近衛家と島津家は非常に強い結びつきがありました。
かの”島津の退き口”で命からがら逃げてきた島津家の人々を、前久たちは積極的に屋敷へ迎え入れています。
元々島津家は関が原の戦い……といいますか、家康と石田三成の対立にはあまり積極的に関わってはいませんでした。【会津征伐】のために1000人ほどの兵を率いて、義弘が上方にいただけだったのです。

島津義弘/wikipediaより引用
しかし、会津へ向かう前に上方で西軍が兵を挙げたため、話が少々変わってきます。
家康は上方を空けるにあたり、伏見城に留守居の将兵を残していたのですが、ここを西軍が攻めたのです。
義弘は家康からの依頼で、伏見城への援軍として入城しようとしました。……が、城将の鳥居元忠に拒否されてしまい、立場をなくして仕方なく西軍に付かざるを得なくなります。
ここで東軍としての立場に居続けると、4万ともされる西軍の中で孤立してしまうからです。
いかに勇猛な島津軍でも、これほどの兵数差ではどうしようもないと思ったでしょう。
義弘ももちろんですが、島津の兵たちにとっても本当に災難な話です。
そういった事情を、近衛家側がどこまで知っていたかはわかりませんが、縁の深い家の人々に対しては、最善をつくすのが公家の流儀。
彼らはそのまま近衛家で年を越したようです。
帰国についてはあまり詳しい記録がないながら、島津家の方から丁寧に礼を述べる手紙が送られているため、無事に帰ることができたのでしょう。
その後、信伊が家康に対して島津家赦免を願い出ています。もちろん、前久の意向でもあったでしょう。
「義弘殿は状況的に致し方なく西軍についたのであり、本国にいた義久殿は知らぬこと」
という路線で家康を説得したようです。
信伊が左大臣に返り咲き
同時に、信伊は「義久殿が自ら上洛して家康に一言入れるように」と勧めていたようですが、これはかないませんでした。
代わりに家老の鎌田政近が上洛し、なんとか島津家の本領安堵を取り付けています。
家康としても、ここで遠隔地かつ精強で知られる島津家とやり合うのは、メリットよりデメリットが大きかったでしょうから、ハナから取り潰す気はなかったでしょう。
しかし、一度振り上げた拳をそのまま下ろすのはバツが悪いもの。面子を重んじる当時の価値観であればなおのことです。
島津家側から何らかの動きがなければ、許すというわけにはいかなかったのでしょう。
関ヶ原の戦い後、慶長六年(1601年)に信伊は左大臣に返り咲き、その後慶長十年(1605年)に関白へ就任しています。
このあたりから前久はほぼ完全に”ご隠居様”になり、政治の世界には出てこなくなります。
草津温泉に出かけたり、家族と頻繁に会って団欒を楽しんだり、といった具合です。

近衛前久『贈答百人一首』/wikipediaより引用
島津家との交流も変わらずに続きました。
特に義久とは気心も知れているからか、彼にあてた手紙の中で、
「私はいらぬ武芸ばかりに励んでいないで、もっと別のことに身を入れるべきだった」
と、若干後悔の念をにじませたこともあります。
戦に出たがった前久を止めたことがある義久からすれば、
「それ、もっと早く気づいてほしかったな……」
なんて思ったかもしれませんね。
しかし、職責や血筋にとらわれずに自らの意思で動き、可能な限り良い形で家を残そうとし、それがかなったのですから、ベストではなくてもベターな人生だったのではないでしょうか。
★
前久は慶長十七年(1612年)に亡くなりました。
享年77。
息子の信伊も、その二年後である慶長十九年(1614年)に亡くなっています。
幸か不幸か、かつて自分たちを脅かした豊臣家の崩壊を見ることはなかったのでした。
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【参考】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇 (SB新書)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
近衛前久/Wikipedia
近衛龍山筆津軽富姫弔歌/弘前市





