南蛮人が連れてきた黒人奴隷(弥助関連)/wikipediaより引用

アフリカ

モザンビークってどんな国?弥助の出身地であり遣欧使節団も立ち寄った

自分が学生だった頃にはなかなか気づかないものですが、歴史の教科書って結構な偏りがありますよね。
右とか左とかいう話ではなくて、取り扱う国の分量です。

そりゃ歴史上大きな影響を与えた国の出番が多くなるのは当たり前なんですけども、影響を与えられたほうのことももうちょっと扱っていいと思うんですよね。
というわけで、本日は歴史でも地理でも教科書にほとんど出てこないであろうとある国のお話です。

1975年(昭和五十年)6月25日は、アフリカの国のひとつモザンビークが、ポルトガルから独立した日です。

この国については「どこ?」という方と「どっかで聞いたことあるような気がする」という方にはっきり分かれるのではないでしょうか。
当コーナーでも一度出てきたことがあります。

弥助
日本初の黒人武士・弥助~信長に仕え本能寺で巻き込まれたその後は?

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そう、「信長が肌の黒さに驚き、また体格の良さと力の強さを気に入って家臣に加えた」と言われている、弥助の故郷なのです。

厳密に言えばはっきりした記録があるわけではないのですが、ポルトガルのアフリカ植民地はあまり多くないので、ほぼ確定と見てよいかと。
今後、何かわかるかもしれませんしね。

歴史好きの中でもあまり馴染みがない国ではありますが、弥助の故郷(仮)ということで今回取り上げてみました。
それでは前置きが長くなりましたが、モザンビークの歴史を見ていきましょう。

 


石器時代の遺構からパンや野生のオレンジが

モザンビークは、アフリカ大陸の南、インド洋側にある国です。

海を挟んで向かいにはマダガスカル、陸のお隣さんではハイパーインフレで有名なジンバブエや、2010年ワールドカップの開催地となった南アフリカ共和国などがありますね。

モザンビークはここにありまーす/Wikipediaより引用

人類発祥の地がアフリカ大陸ですから、当然のことながらモザンビークにもはるか昔から人が住んでいました。

石器時代の遺構と思われる場所から、パンやおかゆ、野生のオレンジなどを食べて暮らしていたことがわかっています。

沿岸部では紀元前からギリシアやローマ帝国と交易が始まっており、農業や鉄工の技術もあったようです。

また、8世紀ごろからはアラブ世界の人々が金銀を求めて来ることもありました。
他にも香辛料や象牙などが交易の対象となっており、ときには中国やインドとも取引をしていたようです。

「中国!?」と思ってしまいますが、14世紀に鄭和ていわという人が東南アジア・インド・アラビア半島・アフリカまで行って帰ってきたことがありますので、おそらく当時の中国でもこの辺のことを知っている人がいたのでしょう。

 


あの少年使節が帰国途中に立ち寄った

15世紀、ヨーロッパが大航海時代に入ると、ポルトガル人がこの地を気に入り、植民地化を進めました。

当時の首都はモザンビーク島という小さな島に置かれています。
元々は港として整備されていて、造船所などもあったからです。

島の名前を本土の名前にするというのもなんだかなあという気がしますが、現在世界遺産になっているほど美しい島なので、そのためかもしれません。

モザンビーク島はアフリカにおけるポルトガル勢力圏の中心地となり、キリスト教の拠点として礼拝堂も建てられました。

1586年(天正十四年)の天正遣欧少年使節が、帰国途中の船の日和待ちのためにここへ立ち寄ったことがあるそうですよ。
弥助以外にも縁があったんですねえ。

とはいえ植民地ですから、現地の人々にとっては大迷惑なことも多々ありました。
当時のポルトガルはブラジルを植民地にした直後だったのですが、その労働力確保のため、モザンビークをはじめとしたアフリカ大陸のあっちこっちの人々を奴隷として輸送したのです。

奴隷船の悲惨さはよく知られていますので割愛しますが、当時の技術では大西洋を渡りきれる船のほうが珍しく、「航海の成功率は6万回のうち数百回程度だろう」とする研究者もいるほどです。

しかも、船の中へ荷物同様に積み込む、あまりに非人道な所業。
奴隷船の図を小さめの画像サイズで掲載しておきますので、ご興味のある方はご自身でご確認ください。

 


混乱のポルトガル体制下で植民地は続く

弥助も奴隷として母国から連れて行かれていた一人です。

行き先はブラジルではなく、やはりポルトガルの植民地だったインドのゴア。
その後、宣教師に連れられて日本に来たので、かなり運のいいほうだったといえるでしょう。

19世紀に入って、ポルトガルは植民地先での奴隷制を止めたのですが、それは名ばかりの話でした。
産業革命の時期ですから、先進国でさえ児童労働や劣悪な環境が問題になっていた時代です。ポルトガルはやや出遅れていましたし、それが植民地となれば推して知るべしというところですよね。

というかこの頃の本国は内戦が起きたり、王様がブラジルに逃げたり、その後帰ってきたり、ブラジルが独立したり、
「ドタバタってレベルじゃねーぞ!」
状態だったので、植民地先の労働問題改善など頭になかったのでしょう。

誰にとってもひどい話です。

また、同時期のポルトガルはイギリスからの圧力を強く受けていたため、アフリカの植民地をいくらか譲渡せざるを得なくなり、モザンビークだけが残りました。このとき現在とほぼ同じ国境になっています。
が、モザンビークにもイギリス・フランスの勅許会社(東インド会社みたいなもの)が進出してきたため、やはり影響は免れませんでした。

後々のことを考えると、この時点でポルトガルはモザンビークを手放しといても良かったんじゃないですかね(´・ω・`) 後世の視点ではありますが。

 

第二次世界大戦後、アフリカで独立運動が活発化

そんな感じで、ポルトガルの力が弱まり始めたことが住民にも薄々わかり始めると、当然の事ながら独立運動が起こります。

が、第二次世界大戦までは軒並み武力鎮圧されてしまいました。

戦後は、他のアフリカ諸国もそれぞれの宗主国から独立しようと動き始め、実現する国も出てきました。
これによってモザンビークでも再び独立運動が起きます。

この辺の宗主国たちの動きは

「割とあっさり手放した国」
「時間はかかったけど戦争まではしなかった国」
「何もかも植民地からぶんどって、後の内戦の火種をまいた国」
「何とか植民地を手放すまいとゴネ続けた国」

とまあいろいろ分かれました。
ものすごく単純に言うと、力の強い国ほど穏便に解決し、あまり余裕のない国ほどゴネたという感があります。

大分前から力が落ちていたポルトガルは言わずもがな、なかなか植民地を手放そうとはしませんでした。「海外州」と名称を変えてまで引っ張っています。

が、そんな言葉遊びで納得する人は誰もいません。

こうして1964年にモザンビーク独立戦争を開始。
人々は苦戦しましたが、ソ連や中国の支援を受け、10年以上かかってようやく1975年に独立を勝ち取ります。

その前年である1974年には、ポルトガル本国でもカーネーション革命(同国の独裁体制を終わらせた軍事クーデター)が起きていたため、これも後押しになりました。

カーネーション革命のシンボルが描かれた壁画/photo by I, Henrique Matos Wikipediaより引用

 


将来的にも安定した成長が期待される国の一つ

とはいえその後もすんなり安定したわけではありません。

周辺諸国や自国内でのドンパチがしばらく続き、収まったのは1992年のこと。
新しい憲法ができてからは、いわゆる西側諸国や英語圏との結びつきを強め、イギリス連邦にも加盟しました。

面白いのは、その後にできたポルトガル語諸国共同体(略称:CPLP)にも参加していることです。
どっちも「これからは平和的にいろいろ協力していこうぜ!」という組織なのですが、なかなか珍しい話ですよね。

日本は独立直後にモザンビークを承認し、以降両国のお偉いさんが割と頻繁に行き来しています。
2000年にはあちらに日本大使館ができたので、それからはより一層結びつきが強まりました。

民間企業でもモザンビークへ出資しているところがチラホラありますので、今後名前を聞く機会が増える国かもしれません。

外務省のページでも
「近年までは年7~8%の経済成長を遂げ」
「将来的にも安定した成長が期待される国の一つ」
と書かれていますね。

とはいえ国民の多くがいわゆる貧困層であり、失業率が24.5%もあるなど、まだまだ課題は多そうですが。

これは余談ですが、モザンビーク近海ではエビがよく捕れるので、日本への主要輸出品のひとつになっています。
現地でもよく食べられているようです。
旧宗主国のポルトガルも結構魚介料理が多いので、そちらの影響も強いと思われます。

私見で恐縮ですが、海産物食べる国ってなんとなく親近感わきません?
わかない? そっか(´・ω・`)

長月 七紀・記

【参考】
モザンビーク/Wikipedia
弥助/Wikipedia
モザンビーク/外務省


 



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