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弘文天皇/Wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた

謎多き「壬申の乱」が起きた理由 なぜ大海人皇子は大友皇子を追い込んだのか

更新日:

文章をわかりやすくするための要約は大切ですが、あまりに端折りすぎると「は?」ということになってしまいますよね。
特に歴史においては「勝てば官軍」とばかりに事件の経過や原因が略されてしまうと、後世から見てワケワカメなことになってしまって困るものです。
本日は古代史におけるそんなお話。

天武天皇元年(672年)7月23日、壬申の乱に敗れた大友皇子が縊死(いし・首吊り死)を選びました。

これだけだと何のこっちゃという話ですので、まずは壬申の乱について順に見ていきましょう。
途中で即位する人がいたり、追号を送られてたりするんですが、面倒なので最初の呼び名で統一しますね。

【TOP画像】弘文天皇/Wikipediaより引用

 

事実だけを追ってみてもその理由は見えてこないが

まずは天智天皇から天武天皇への変遷をざっくりと追ってみましょう。

【10行でわかるかもしれない壬申の乱】
天智天皇(大化の改新をやった中大兄皇子の即位後の名)が弟の大海人皇子を皇太子にしようとする

途中で気が変わって、息子の大友皇子を皇太子にするかどうか迷う

大海人皇子、「直系の皇子に継がせるのが筋なので、私は出家します」と頭を丸める

天智天皇、大友皇子を正式に皇太子へ

天智天皇が亡くなり、大友皇子が弘文天皇として即位(してないかも)

大海人皇子が何故か反乱を起こす

壬申の乱勃発

大海人皇子側が連戦連勝

大友皇子が首を吊り、大海人皇子が勝利 ←今日ここ

大海人皇子が天武天皇として即位

だいたいこんな感じです(これは日本書紀の話であって、いくらか事実がねじまg……省略されている可能性もあるようで……)。
そもそも、これじゃあ一度頭を丸めた大海人皇子が反乱を起こした理由がサッパリわかりませんし、記録にするとマズイ事情があったのかもしれませんね。これ以上詮索するとそれこそヤバイ気がするのでやめておきましょう。くわばらくわばら。

ただし、一応「これじゃね?」といわれている説はいくつかあります。

 

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血筋から言えば大海人皇子に軍配があり……

ひとつは、皇位継承順が絡んでいるというもの。
大海人皇子は天智天皇の同母弟なので、父親も母親も天皇(舒明天皇&皇極天皇)です。いわば日本において最高の血筋です。

一方、大友皇子の母親は天智天皇の女官だったといわれていて、同じ「皇子」でも大幅に身分が異なりました。
このため、当人たちはともかく、周囲の豪族たちからすれば「より身分の高い方が皇位に就いて当然だろjk」という感じだったとしてもおかしくはありません。
その結果、大海人皇子派と大友皇子派に分かれ、戦乱になった……という説です。

もうひとつは、「天智天皇が改革的な政治をしたため、それについていけない豪族との不和が生まれ、それが世代を超えて引き継がれた」というものです。
皇極天皇の時代(正確には重祚した後なので斉明天皇)に、日本は朝鮮半島の国・百済復興のため、大陸へ兵を出したことがありました。
そして白村江というところで大敗北してしまったのですけれども、天智天皇はこのとき、百済の人々を日本に移住させています。
そのためには新しい家その他諸々を用意してやらなければならず、その負担が豪族や一般庶民にのしかかり、天智天皇に不満を抱く勢力となって大海人皇子を即位させようとしたのでは……という話です。
これもまあありそうな話ですよね。

 

江戸時代に提唱された額田王を巡る説

ちなみに「女がらみじゃね?」という説もあります。
万葉集に額田王(ぬかたのおおきみ)という女性の歌があるのですが、そのいくつかが彼女と天智天皇・大海人皇子との三角関係をうかがわせることからきています。

が、確たる証拠はありません。
この説を言い出したのは江戸時代の人なのですけれども、昔から三角関係とか「王冠(皇位)をかけた恋」みたいな話は話題になりますから、創作の可能性が高そうです。
もしかしたらこの三つ全部が原因だったりするのかもしれません。

人心掌握については、大海人皇子が優れていたらしきことが記録されています。
大海人皇子は上記の通り自ら皇位継承レースから一度降りているのですけれども、その後出兵したとき、一度兵を引いて伊勢神宮に詣でているのです。
この時代ですから、神様は現代よりもっと大切なもの。神を敬う姿勢を見せた大海人皇子についていこうと決めた豪族は数多く、これで大海人皇子は地盤固めができたのです。
その後も各地の役人から協力を得て、着実に兵を集めていきました。

 

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関東に大友皇子の墓がある!?

一方で大友皇子も味方を増やそうと努力はしていたようなのです。

しかし、大海人皇子についた人々に使者を妨害されたり、説得がうまくいかず引き込めなかったりでうまくいきませんでした。
なんとか近隣から集めることができた兵は、悪い言い方をすれば寄せ集め。自ら志願してきた大海人皇子方の兵には適わず、また指揮の面も大海人皇子方が優れていたことで、大きく戦況が変わることはありませんでした。

そして進退窮まった大友皇子は、首を吊るという皇族としてはあまりにも悲惨な死を選ぶことになります。
一度は正式に皇太子になったのに、ひどい話ですよね……。

ただし、例によって生存説もあるようです。現在の神奈川県や千葉県あたりに大友皇子の墓(陵)とされるものや、大友皇子を祀っている神社があるとか。
いくら離れてるとはいえ、地続きのところに逃げてもいずれバレる気がするんですが……当時は富士川を越えたら異国ってことだったんでしょうか。なるほどわからん。

壬申の乱は本能寺の変ほどの知名度ではありませんが、タイムマシンができたらぜひ真相を確かめてほしい事件の一つですね。

長月 七紀・記




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参考:弘文天皇/Wikipedia 壬申の乱/Wikipedia

 





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