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その日、歴史が動いた 欧州

日本人には複雑すぎるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 入り乱れる民族・宗教のゴタゴタを整理してみた

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日本の技術がガラパゴスと呼ばれて久しいですが、技術以外のこと、特に感覚についてもかなり特殊な傾向があるような気がします。「ここがヘンだよ日本人」というやつですね。

歴史に関わることでいえば、特に宗教と民族に関わることについては、日本人ほど世界基準と異なる民族もいないのでは? いいとか悪いとかいう話ではなく。
本日はそんな話題の中から、ごく最近のお話をしたいと思います。

1995年(平成七年)12月14日は、デイトン合意でボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終結した日です。

ややこしい話なので日本ではあまり話題になりませんが、キーワードやここまでの歴史を先に押さえておくと、少しわかりやすくなるかもしれません。
例によってざっくり見ていきましょう。
……というかですね、話の流れ的に詳しく書くとR18Gになってしまうので、ざっくりにせざるを得ないんですね……悪しからずご了承ください。

ボスニア・ヘルツェゴビナ/wikipediaより引用

【TOP画像】図説 バルカンの歴史 (ふくろうの本)表紙

 

「税金さえ払えばどの宗教でも別にいいよ」

まず、この紛争と地域でもっとも重要な民族名と宗教の話から始めましょう。

・セルビア人=東方正教会信者
・ボシュニャク人=イスラム教徒
・クロアチア人=カトリック教徒

「信者」と「教徒」の使い分けに特に意味はありません。「東方正教会教徒」だと個人的に字面が落ち着かないだけです(キリッ)
また、クロアチアやセルビアという国もあるのでややこしいのですが、「外国に引っ越したとき、国籍を変えたとしても民族が変わるわけではないのと同じ」と考えていただくと何となくつかめるかと思います。

さて、それでは本題に移りましょう。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナを含むバルカン半島は、比較的小規模な山脈が点在するという地形から、多数の民族が個々に暮らしていた地域です。
ギリシア文明の時代から、混血や改宗で他民族に馴染んでいった人もいれば、他民族に攻められて山奥に逃げていった人たちもいました。

オスマン帝国時代、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを含むバルカン半島全域は帝国の支配下に置かれます。
オスマン帝国はイスラム教の国ですが、強制改宗などはさせず、「税金さえ払えばどの宗教でも別にいいよ」という政策を取っていました。もちろん、改宗してもおkでした。他宗教→イスラム教への改宗だけでなく、その逆も認められていましたし、他の国から迫害された宗教の信者も受け入れています。

しかし、徴税等の都合から民族や宗教ごとにグループを作って管理していたため、グループ間の理解が進まず時代が下ることになりました。

余談ですが、最近「オスマントルコ」という呼び方をしなくなったのは、こういった事情で「トルコ人だけの国ではないから」という理由だそうで。スルタンがトルコ人だったのは事実ですけどね。

 

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サラエボ事件から第一次世界大戦に発展

さて、オスマン帝国の衰退後、バルカン半島は地域ごとに異なる道を歩み始めます。ギリシャのように独立する国もあれば、他の国に併合された地域もありました。ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下に置かれています。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナに住む民族の一つ、セルビア人がこれに反感を持ち、サラエヴォ事件と第一次世界大戦が起きたのは有名な話ですね。

第二次世界大戦時は、ナチスドイツの傀儡国家・クロアチア独立国がボスニア・ヘルツェゴヴィナの大部分を支配しました。
このとき、クロアチア人の過激な民族主義組織・ウスタシャにより、セルビア人・ユダヤ人・ロマ(ジプシー)などが虐殺されています。これに対抗するため、セルビア人の民族主義者チェトニクらによって、クロアチア人やボシュニャク人が虐殺されました。

つまり、お互いに民族浄化を繰り返していたのです。

これがボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争で互いの民族に対する虐殺の”正当な”理由ともなりました。仇の仇の仇……がとんでもない規模になってしまったのです。

 

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大統領チトーの政権下ではユーゴスラビアは平和だった

ボスニア・ヘルツェゴヴィナを含む「ユーゴスラビア」という連邦国家ができたのは1946年のこと。
ボシュニャク人という民族名が使われ始めたのは1974年でした。彼ら自身は「ボスニア人」と名乗りたかったそうなのですが、多民族が混在する中で、特定の一民族だけが地域名を名乗ることは争いのもとになる、との判断から、このような名称になったとか。

ここからしばらくの間、ユーゴスラビアの中で他民族との結婚なども進み、平和な時代が続きました。1953年~1980年までユーゴスラビアの大統領を務めたチトーという人の力によるものです。

チトーは第二次世界大戦時に反独パルチザンのリーダーだった人物で、冷戦時代もソ連の影響を受けずに社会主義国家を作りました。
実際、社会主義としては異例なほどの言論の自由を保証していて、チトーの批判も許されていました。
秘密警察はあったが、これは民族主義「を」取り締まるためのもので、多民族国家をまとめ上げるためでした。そうでもないと、多民族国家を収めることはできなかったのです。
ちなみに、スターリンによるチトー暗殺も秘密警察が防いでいたとか。有能すぎ。

しかし、このチトーが1980年に亡くなったことにより、ユーゴスラビアの平和が揺らぎ始めます。各地で独立運動や民族間の対立が起こり、ユーゴスラビア紛争と呼ばれるこの地域全体の紛争となります。
具体的には、チトーの死後、1991年にユーゴスラビアの中にあった国に民族主義者のリーダーが現れ、ユーゴスラビアからの独立を図ったことが引き金です。

 

相次ぐ独立運動に軍事行動が勃発し……

ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、ボシュニャク人とクロアチア人たちが「俺らも独立しよう」と考えました。
しかし、セルビア人はボスニア・ヘルツェゴヴィナからの独立に反対し、自分たちのシマ(自治区)を作って抵抗します。

この緊迫した状況の中、1992年にボスニア・ヘルツェゴヴィナ政府は独立に関する住民投票を行います。セルビア人がボイコットしたにもかかわらず、政府は強引に独立を決めてしまいました。

そしてEC(EUの前身のアレ)によってボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立は認められたものの、セルビア人達は軍事行動を開始。「ボスニア・ヘルツェゴヴィナからセルビア人は独立する」として、スルプスカ共和国という国を宣言します。

本格的にややこしくなってきましたが、こんな感じでとらえるとわかりやすくなるでしょうか↓

・本のタイトル(ユーゴスラビア紛争)
・章のタイトル(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争)
・小見出し(スルプスカ共和国独立宣言、以降の紛争の経過)

……余計分かりづらかったらスイマセン。

 

セルビア人vsクロアチア人vsボシュニャク人という三つ巴

当初はユーゴスラビア政府&セルビア人vsクロアチア人・ボシュニャク人という構図でした。が、クロアチア人とセルビア人の間でボスニア・ヘルツェゴヴィナ分割交渉が行われたことにボシュニャク人が怒り、クロアチア人vsボシュニャク人の衝突も起こってしまいます。

かくしてセルビア人vsクロアチア人vsボシュニャク人という三つ巴・最悪の構図ができあがります。

1994年にアメリカがクロアチア人・ボシュニャク人の間を取り持ち、同盟を結ばせ、この二つの民族の国を作ること、米国が軍事支援をすることも決めて、三つ巴の一変は崩れます。
これを受けて、NATOがセルビア人勢力を空爆しました。

しかし、セルビア人勢力は国連保護軍兵士を人質に取ったため、国連保護軍に参加しているイギリス・フランスの反対で空爆が停止。1995年1月から4ヶ月停戦が決まったものの、この短期間で戦意や恨みが薄れるわけもなく、期限が切れた後は再び戦闘が始まりました。

有名な大量虐殺「スレブレニツァの虐殺」が起きたのはこのあたりのことです。
これはセルビア人によるボシュニャク人虐殺ですが、上記の通り、これまでの時代にはセルビア人が被害者だったこともありましたし、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の間もそれは同じでした。つまり、クロアチア人やボシュニャク人が加害者だったこともあるのです。

ですから、「特定の民族だけが悪い」「より多く虐殺したほうが悪い」という話ではありません。西側諸国では、わかりやすく正義と悪を定義づけるために、セルビア人を一方的に悪と決めつけていたようですが。
例によってどこで見たのか忘れてしまったのですけれども、一連の虐殺事件の中で、「生き残りをわざと見逃した」兵士もいたそうです。もちろんそれは、良心の呵責からでした。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争で相争ったのが、ごく普通の市民たちだったことがわかる逸話ですね。

 

現在は3民族から1人ずつ代表が出て大統領評議会を運営

誰が悪いかといえば、死後も自身の政策を遵守してくれる後継者を見つけておかなかったチトーが悪いのではないでしょうか。自分のやり方が正しいと思っていたならなおの事です。
ビスマルクもそうですが、なぜ一番うまく舵取りをした人間が後継者の重要性に全く気が回らないのか不思議で仕方がありません。

その次に悪いのは、中途半端に空爆をし、国連保護軍を送った欧米諸国ですかね。中途半端に力を行使してしまったため、人質にされるような武装しかさせず、兵を渦中に放り込んで事態を悪化させると……。
最終的な停戦もNATOとアメリカの介入によるものなので、役立たずとはいえないにしても、それとひきかえに失われた人命が多すぎます。

こうして4年に渡るボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争は、「クロアチア人・ボシュニャク人のボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦」と「セルビア人のスルプスカ共和国」が「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ”共和国”」の中に併存するという形で終わりました。

これがデイトン合意です。

現在は3つの民族から1人ずつ代表が出て、大統領評議会を作り、この会全体を国家元首とすることになっています。評議会の議長が事実上ボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の元首ということになりますが、8ヶ月ごとに順番で交代することが決まっているため、公正な状態が保たれています。
とはいえ、民族主義政党の人気は高いため、完全に和解したというわけではないのですが……。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ”共和国”としてサッカーチームが出場するときは、各民族関係なく構成されていることもあるようですので、これをお手本に融和を図っていってもらいたいものです。

長月 七紀・記

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参考:デイトン合意/wikipedia ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争/wikipedia ボスニア・ヘルツェゴビナ ユーゴスラビア/wikipedia

 





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