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その日、歴史が動いた ドイツ WWⅡ

1000名以上のユダヤ人を虐殺から救ったオスカー・シンドラー その生涯&偉業とは?

更新日:

 

有名な人物や逸話ほど、創作のネタになるものです。
そしていつしか、フィクションだった内容が事実のように思い込まれるようになることも少なくありませんよね。創作は人物を知るキッカケとして、事実は事実として、それぞれ分別を持って受け止めとめたいところですが、なかなか難しいところがあります。
本日はそんな感じの、第二次世界大戦期における有名人のお話。

1974年(昭和四十九年)10月9日は、映画「シンドラーのリスト」で有名なオスカー・シンドラーが亡くなった日です。

既に映画を見た方も多いでしょうし、「興味はあるんだけど、怖そうでなかなか見られない」という方もいらっしゃるでしょう。戦争映画には名作もたくさんありますけれど、エグい描写に耐性がないとキツイですよね。
映画については「美化しすぎ」「虐殺シーンで好きな曲が使われていてショック」などなど、さまざまな意見がありますが、実際のオスカーはどんな人だったのでしょうか。

例によって過激な描写は控えつつ、彼の生涯と偉業についてみていきましょう。

オスカー・シンドラー/Wikipediaより引用

オスカー・シンドラー/Wikipediaより引用

【TOP画像】シンドラーズ・リスト―1200人のユダヤ人を救ったドイツ人 (新潮文庫)

 

子供の頃から近所のユダヤ人たちと一緒に遊んでいた

オスカー・シンドラーは、1908年に現在のチェコで生まれました。
ご先祖は16世紀にウィーンからこの地に引っ越してきていたので、血筋的にはドイツ系ということになります。
一応シンドラー家はカトリックだったそうですが、オスカーはあまり信仰心が強いほうではなく、近所のユダヤ人の子供たちと一緒に遊んでいたそうです。おそらくは、両親も強く反対はしなかったのでしょうね。

父親は農業機械の工場を経営していたということですので、経済的には割と豊かなほうだったと思われます。
「衣食足りて礼節を知る」というところでしょうか。
学校の成績は良いほうではありませんでしたが、成績証明書を改竄するという悪賢さは持っていたそうです。
ある意味、これも後々役に立ったかもしれません。

学校を出てからは会社勤めをした後、一時徴兵でチェコスロバキア陸軍に入っていたことがあります。
1927年に妻エミーリエ・ペルツルと出会い、おおよそ半年ほど後に結婚しました。彼女との間に子供はいません。
しかし、父の秘書だったアウレリエ・シュレーゲルと愛人関係になり、子供を二人もうけています。よほど若い秘書だったということでいいんですかね……。

 

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「ズデーテン・ドイツ郷土戦線と」の入党で運命が変わ

兵役を終えた後は、元の会社に復職したものの間もなく倒産。
運悪く父の工場も潰れてしまったため、経済的には苦しい時期が続きました。父さんのとうs……なんでもないです。

幸い、妻エミーリエの父親が援助してくれて何とかなりました。
出資もしてもらったようで、養鶏場を買ったり、銀行で働いたりして生活の基盤を整えています。

彼が社会に大きく関わり始めるのは、1935年に「ズデーテン・ドイツ郷土戦線と」いう政党に入ってからのことです。
ここでドイツの諜報員としてチェコの情報を流すという、かなりの技術と度胸がいる仕事をしていました。後にバレて死刑になりかけましたが、その前にドイツのズデーテン併合(1938年10月)があり、刑が中止されています。
このことからか、1939年2月にちょび髭党に入り、ドイツがポーランドへ侵攻した後、戦争特需による一攫千金を狙ってポーランドのクラクフという町にやってきました。

1939年10月にクラクフのホーロー工場を買い取り、新たな事業に乗り出します。
ここは元々ユダヤ人の経営者がいたそうなのですが、ちょび髭党の対ユダヤ人カツアゲ政策(マイルドな表現)により売りに出ていたそうです。

ブルニェネツに残るシンドラーの工場/Wikipediaより引用

 

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工場のユダヤ人を保護 ワイロも上手に使いながら

ドイツ軍の厨房で使う器具の製造を請け負ったことにより、オスカーの工場は急成長していきました。
初期の段階で250人もの人を雇っており、その中にユダヤ人が数名含まれていたことが、オスカーと他のユダヤ人の運命を決めます。
三年ほどで工場の規模も従業員も数倍になり、既にゲットー(ユダヤ人”居住区”とは名ばかりの軟禁区域)に押しこめられていたユダヤ人も370人雇われていたといいます。

オスカーはいわゆる伊達男で、オシャレを楽しむ男でした。
同時に経営者として従業員に気を配ることもでき、ユダヤ人たちが物々交換や賃金の足しにできるよう、タバコを“うっかり”置き忘れることもありました。
ゲットーは狭いエリアにかなりの人数を押しこめていたため、食料や衛生事情が極めて悪く、普通に生きていくだけでもやっと。ユダヤ人以外で多くの人は見て見ぬふりをしていましたが、オスカーは知っていたようです。

まあ、当時の状況で、堂々とちょび髭党に逆らえる人はそういませんから、仕方のない面もあります。
オスカーの他にも、自分の工場で働くユダヤ人をできるだけ保護しようと努めた経営者はいたようで。
彼がかなり大胆なユダヤ人保護をすることができたのは、ちょび髭党員であったことや、彼の工場が軍需工場として特別扱いになっていたこと、そして多額の賄賂をしたことが大きな理由でしょう。

どれか一つでも欠けていたら、彼自身も危険に晒されていたに違いありません。実際に、事情聴取を受けたことは複数回あります。

 

強制収容所ら800人を救出 あのアウシュビッツからも

戦況が進むにつれて、ゲットーのユダヤ人は徐々に強制収容所へ連行されていきました。
オスカーは「自分のところで働くユダヤ人は皆生産に関わっているので、連れて行かれては困る」と主張し、ユダヤ人従業員やその家族を出来る限り保護していきます。

しかし、オスカーの庇護にも限界がやって参ります。
1943年の春、クラクフのゲットーが解体されることが決まり、まだ残っていたユダヤ人たちは近隣にあるプワシュフ強制収容所に移送されてしまったのです。
ここの所長は、ちょび髭党の中でも特に残忍かつ悪趣味なアーモン・ゲートという男でした。ゲートの所業についてはガチで気分が悪くなるので、この記事では詳述しません。耐性のある方はググる先生などにお尋ねください。

オスカーにとっては、ゲートが知人だったことがある意味では幸運でした。賄賂を掴ませた上で「工場の近くに家があったほうが都合がいい」と交渉し、自分の工場で働いていたユダヤ人の移住許可を取り付けることができたのです。

1944年の年末にはいよいよドイツが劣勢となり、機密保持等のため、強制収容所の解体とそこにいたユダヤ人の処分が決まります。
このときオスカーは「ブリュンリッツ(現在のチョコ・ブルニェネツ)で新しく工場を買ったので、物資生産のための労働者がほしい」と持ちかけ、収容所から800人を救出しました。このうちユダヤ人は700人、その中に女性が300人いたそうです。
途中で女性たちが一時アウシュヴィッツ強制収容所に送られるという事故が起きましたが、オスカーは直ちに向かい、救出しています。

このときアウシュヴィッツからさらに120人を救出しました。しかし、移送の貨物車もひどい状態で、13人が凍死してしまったそうです。他の107人も危険な状態だったため、直ちに医療措置が取られ、何とか生き延びました。

オスカーは凍死者の遺体をドイツ軍に渡すことも拒否し、土地を買って、ユダヤ教のやり方で葬儀を行ってから埋葬しています。

 

戦後、事業がうまく回ってないときに現れたのが……

1945年春、ソ連軍の侵攻を知って、オスカーはユダヤ人を開放、自身は亡命することにしました。
彼自身はやましいことは(賄賂以外に)していなかったにしても、ちょび髭党員というだけで身の危険があったからです。

実は同時期に、長男のオスカーがツヴィッタウ(現在のチェコ・スビタビ)で行方不明になっています。
もしかしたら、ユダヤ人たちがもう安全であろうということを知って、長男を探しに行ったのかもしれません。結果は……。

戦後を迎え、いくつかの事業を始めますが、ほとんど失敗して資金繰りにも困るように。これを知った、かつて彼に救われたユダヤ人たちが支援を申し出ます。その後、イスラエルやロサンゼルスなどでの再会も果たしています。
オスカーは彼らの一人ひとりをよく覚えており、ときにはあだ名で呼ぶこともあったとか。

それからは家のあるフランクフルトと、エルサレムで年の半分ずつを過ごす生活を続けました。
1974年のこの日に亡くなったのはドイツでしたが、遺言によってお墓はエルサレムのカトリック教会墓地に作られています。

 

従業員とその家族を大切にする――という経営哲学

彼のやったことはユダヤ人救済というだけでも十分すごいことですが、経営者の規範にすべき点が多々含まれていると思われます。

オスカーは、ユダヤ人を家族単位でよく見ていました。父親が自分のところで働いていれば、その子供も雇い、日頃からよく話しかけていたそうです。
だからこそ、戦後数十年経っても覚えていたのでしょう。

オスカーは家族がどれほど心の支えになるか、生きる糧になるかということを重視していたと思われます。でなければ、手当たり次第に連れ出していたでしょうから。
そうしたほうが、人数的には多くの人を救えたかもしれません。しかし、戦後生きていく上で助け合うには、やはり家族同士の信頼や結束が相当の支えになったはずです。

つい先日、またしても会社のせいで若くして死を選んでしまった方のニュースが流れていましたが、こういった視点が現在の経営者にもあれば、いつか過労死がなくなるのではないでしょうか。

「残業を減らしたら、業績や写真の第二子出生率が上がった」という会社もあるのですから、最初から「無理」と決めつけるほうがおかしな話かと。

オスカーのように自らの命を賭けるわけでもないんですし、ぜひ真剣に考えていただきたいものです。

長月 七紀・記

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参考:オスカー・シンドラー/Wikipedia





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