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ローマ その日、歴史が動いた

カノッサの屈辱とは? ローマ教皇「破門!」ローマ皇帝「上等だぁ!」→サーセンm(_ _)m からの~!

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ヒトは権力に取り憑かれると、常識がどこかに飛んでいきやすいものです。
我々庶民からすると「いやいや、そんなことしてる場合じゃないでしょ」と思うような妙なことでも、お偉いさんにとっては優先事項だったり、その逆だったり……。
現代でもよくある話ですが、本日は大昔に起こった、そんな感じの事件を見てみたいと思います。

1077年(日本では平安時代承暦元年)1月25日は、「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件があった日です。

世界史用語の中でも厨二心をくすぐるネーミングであったり、アラフォー以上の方には某テレビ番組(というかそのまんま)の名前でご記憶されている方が多いとか何とか。
実際の経緯は、中二どころか小二レベルの言い争い(物理)みたいな感じなんですけどね。馴染みのない地名や権力が関わると難しく見えるのは「世界史あるある」です。
もうちょっと真面目に、この事件のことをお話して参りましょう。

カノッサの屈辱/wikipediaより引用

 

皇帝が聖職者の人事権を狙ったその日から……

かつて神聖ローマ帝国皇帝(以下「皇帝」)は、ローマ教皇に認められて「ローマ皇帝」「イタリア王」の称号を得ていたため、名実ともにイタリア全土を支配しようとする人が多くいました。また、神聖ローマ帝国内での聖職者の人事権を持とうとします。
「ウチの領内なんだから、聖職者も俺の部下!」というわけですね。

しかし、カトリックのトップであるローマ教皇からすれば「お前、ワシに逆らうとかいい度胸してんな(#^ω^)」「聖職者は本来ワシの部下なんですけど^^#」と思うわけで、本来上司と部下だったローマ教皇と皇帝は対立を深めていきます。
この構図は神聖ローマ帝国が成立して半世紀ほどの間に、どうにもならないところまで来てしまっていました。

そしてこの事件当時の皇帝・ハインリヒ4世は、ミラノなどのイタリア諸都市の司教(カトリックのお偉いさん)に自分の配下の司祭を何人も任命し、ときの教皇・グレゴリウス7世の怒りを本格的に買います。
グレゴリウス7世は対抗措置として、ハインリヒ4世に破門と皇帝の位の剥奪をほのめかしました。まずはソレっぽい空気を匂わせて、反応を見ようというわけです。

ハインリヒ4世は当初反発し、「やられるならやり返せ」とばかりに「グレゴリウス7世から教皇位を剥奪してやる!」と言い出しました。はい、アウト。
完全に反省の色がないことに対し、グレゴリウス7世は正式に破門と帝位剥奪を宣言します。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世/wikipediaより引用

 

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貴族たち「皇帝を引きずり下ろしたれ~い♪」

当時、「破門」は「死刑にされないだけありがたいと思えよ」くらいの措置でしたので、一国の皇帝がそんなものを宣告されては、メンツも何もあったものではありません。

これを好機と見たのが、神聖ローマ帝国内の貴族たちです。
元々神聖ローマ帝国は「地方領主の集合体」という性格が強く、皇帝の権力はさほど強くありませんでした。時代が前後しますが、日本でいえば室町幕府と守護大名みたいなイメージです。もちろん、違うところのほうが多いですけれども。

そのため神聖ローマ帝国各地の諸侯は「教皇様に逆らう皇帝とかアホじゃね? 俺達は教皇様に味方します!(ついでにあのアホを廃位してやるぜ)」と考えました。
そしてハインリヒ4世に「教皇様にちゃんと謝ったほうがいいですよ? でなきゃアナタをクビにして、もっと敬虔な新しい皇帝陛下を選出しますんでよろしくお願いしますね^^」(超訳)と宣告するのです。
このころ神聖ローマ帝国の皇帝は、世襲ではなく、有力諸侯による選挙で決まっていたので、こうした脅迫もできたのです。

こうして武力的にも権力的にも危うくなったハインリヒ4世は、不満ながらも教皇に謝罪の使者を送りました。
しかしグレゴリウス7世は俄然強気に出ます。
「ここまで失礼なことしといて使者で済ますつもり? 直接詫び入れに来なきゃ許してやらないよ」(超訳)
そのためハインリヒ4世は、アウクスブルク(現・ドイツ南部)の会議に向かう途中のグレゴリウス7世を訪ねることになったのでした。

グレゴリウス7世/wikipediaより引用

 

修道士の服を着て城門の前で額づき、謝罪m(_ _)m

これに対し、グレゴリウス7世はお粗末なものでした。
まさか本当にハインリヒ4世が来るとは思っておらず「罠じゃないだろうな」と警戒して会おうとしなかったのです。そのためハインリヒ4世は全ての武装を解いて、修道士の服を着て城門の前で額づき、謝罪をしなければならなくなります。

このときグレゴリウス7世が滞在していたのが、ローマから500km北に行ったところにあるカノッサ城だったので、この事件を皇帝側からみて「カノッサの屈辱」と呼ぶわけです。

ここまでされてドン引きしたのか、グレゴリウス7世は破門の撤回を伝えました。
ハインリヒ4世は直ちに帝国へ戻り、ケンカを売ってきた諸侯を黙らせて立場を確立しようとします。

こうなると、その後グレゴリウス7世(教皇)>>>>>>>>>ハインリヒ4世(皇帝)という構図が定着しそうなものですが、そうはなりませんでした。
国内の憂いを断つと、ハインリヒ4世は兵を率いてローマを包囲し、グレゴリウス7世をローマから追い出しているのです。
当然タダで済むわけがなく、その後また諸侯や息子に反逆された上、皇帝の位から結局追われていますが。態度を頻繁に変えるとロクなことが起こらないもんですよね。

グレゴリウス7世もローマには戻れず、イタリア南部のサレルノで亡くなっています。
ついでにいうと、神聖ローマ帝国とローマ教皇のビミョーな関係も、この二人の時代以降ずっと続きました。

まあ、お互いに仲良くするつもりがないんですから、もめるのは当たり前ですね。国際関係こそ大人げが必要という例でしょうか。

長月 七紀・記




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参考:カノッサの屈辱/wikipedia グレゴリウス7世_(ローマ教皇)/wikipedia ハインリヒ4世_(神聖ローマ皇帝)/wikipedia

 




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