オスマン帝国国旗/wikipediaより引用

アジア・中東

カルロヴィッツ条約で覇者交代!オスマン帝国の弱体化でハプスブルク家が躍進

1699年(日本では江戸時代・元禄十二年)1月26日、オスマン帝国がヨーロッパ諸国とカルロヴィッツ条約を締結し、大幅に領地を失うことが決まりました。

かつては東ローマ帝国を滅ぼして首都を分捕り、「オスマンの脅威」とさえ呼ばれたのに、一体何がどうなってしまったのでしょうか。

 


東ローマ帝国を倒したけれど、時代の流れに追いつけず・・・

気付いたらこの国の記事は結構書いておりましたので、まずは時系列順にまとめてみたいと思います

1396年 ニコポリスの戦いで圧勝

1453年 コンスタンティノープルを分捕る(関連記事→東ローマ帝国滅亡)

1571年 レパントの海戦で負けたけどまだまだ頑張る

1699年 カルロヴィッツ条約締結  ←今日ここ

1853年 クリミア戦争で他国と同盟してギリギリ勝つ

1922年 ムスタファ・ケマル・アタテュルクによってオスマン帝国滅亡

番外編としてはエルトゥールル号遭難事件なんてのもあります。
あれだけデカい国だったので国境も多く、いろんなところに出てくるんですが、オスマン帝国そのものがどうにかなったのはだいたいこのくらいですね。

ものすごく大雑把にまとめると、「東ローマ帝国を倒して現在のトルコの元になった国だけど、時代の流れに追いつけず滅びた」という感じになります。
そしてそのターニングポイントになるのがカルロヴィッツ条約というわけです。レパントの海戦と見る方もいますが、細けえこたぁいいんだよ。

オスマン帝国の最大国土/wikipediaより引用

オスマン帝国の最大領土/wikipediaより引用

 


東欧地域でハプスブルク家相手に16年ドンパチ

さて、前置きが長くなりましたがそろそろ本題です。
他国との条約というからには戦争か政争か、何がしかの争いがありました。カルロヴィッツ条約の場合は、戦争の名前で言うと「大トルコ戦争」です。まんまですね。

これは合わせて16年ほど東欧地域でやってた戦争なんですが、主な相手は神聖ローマ帝国……の皇帝家になっていたハプスブルク家、つまり現在のドイツではなくオーストリアでした。マリア・テレジアマリー・アントワネットの家ですね。彼女らが生まれるのはもう少し後ですけども。

レパントの海戦で負けたとはいえ、まだまだヨーロッパへの進出を諦めていなかったオスマン帝国は、この戦いでも頑張ります。一時はオーストリアの首都・ウィーンを包囲するほどでした。

レパントの海戦/wikipediaより引用

レパントの海戦/wikipediaより引用

一度めは失敗して再び挑みますが、オーストリアもその間に防衛を強化していたので、なかなか決着がつかず戦線は膠着します。地下から侵入しようとして穴まで掘ったそうですが、これも失敗に終わりました。

現代でウィーンというと音楽の都のイメージが強いですけれども、当時は立派な軍事都市だったんですねえ。
完全に余談ですが、この戦争やってた頃はバッハの少年時代にあたります。すげえ時代に生まれたもんだ。

 


内乱の後にロシアがクリミア半島へ

こうして攻めあぐねるオスマン帝国では、最悪なことに内紛まで起こりました。
現場の司令官だったカラ・ムスタファという人物について、皇帝にあることないこと吹き込んだヤツがいたのです。そういうのが出ること自体が死亡フラグですが、ときの皇帝・メフメト4世はこれを信じてカラ・ムスタファを見るも無残な方法で処刑してしまいました。

カラ・ムスタファ・パシャさん/wikipediaより引用

カラ・ムスタファ・パシャ/wikipediaより引用

その後、南下のタイミングを見計らっていたロシアが参戦します。
これまた大雑把に言うと、クリミア半島の取り合いです。

他にもイングランド・ポーランドに当時共和国として独立していたヴェネツィアなども加わり、オスマン帝国は多国籍・多方面の敵を同時に相手しなくてはいけなくなりました。
こうなると攻め入るどころか防衛戦に近くなるのは自明の理というものですよね。

とはいえ、この間オスマン帝国だけでなく各国の王やお偉いさんの代替わりがあり、その度に実際の戦闘は少なくなっていきました。要するにgdgdになったわけです。
そして「そろそろやめない?(´・ω・`)」ということで交渉が始まり、条約を結んでオスマン帝国は領土を割譲することを了承したのです。

 

弱体化するオスマン帝国と躍進するハプスブルク家

この戦争で変わった点は大きく二つあります。
一つはもちろんオスマン帝国の弱体化。もう一つは、ハプスブルク家の躍進です。

というのも、オスマン帝国が東欧地域をオーストリアやポーランドに割譲したため、ハプスブルク家にとっては足がかりができたのでした。
オーストリアから西は魑魅魍魎状態のドイツ地域&全盛期のフランス王国ですから、入る余地はありません。しかし、オスマン帝国領だった東側=ハンガリーなどであれば可能性があります。

そこに目をつけたマリア・テレジアのジーチャンであるレオポルト1世が頑張り、国を強くしていったのでした。

国同士でも内政でもそうですが、こういう「覇者の交代」みたいなのワクワクしますよね。これぞ歴史の醍醐味。

長月 七紀・記

【TOP画像】
オスマン帝国/wikipediaより引用
【参考】
カルロヴィッツ条約/wikipedia
大トルコ戦争/wikipedia


 



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