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東京文理科大学附置東京高等師範学校/Wikipediaより引用

その日、歴史が動いた 明治・大正・昭和時代

明治政府が理想と共に設立した「東京師範学校」って、その後どうなったん?

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世界に通用する人間を育てよう!→東京師範学校を設立

人を育てるのは本当に難しいものです。
子育てはもちろん、職場などで「他人に教える」立場になると、かつて自分を育ててくれた人たちへの感謝が沸き起こってきますよね。
「親の親(orそれに近い立場の人)」や「先生の先生(ry)」というように、時代を遡れば遡るほど、その世代特有の苦労なり工夫なりがあったことでしょう。
今回は時代や立場の波に揉まれた、そんな施設のお話です。

明治五年(1872年)5月29日、東京師範学校が設置されました。

師範=先生を養成するための学校ですが、時代やお役所的な都合などにより、なかなかの紆余曲折を経ておりまして。
明治政府は黎明期に多くの課題を抱えると同時に長期的な展望も持っており、その中で「次世代以降の国民を、世界に通用する知識と能力を持った人間に育てよう」という理想を掲げておりました。

そのためには西洋の学問も取り入れた教育をしなければならず、今度は、それを教える先生がたくさん必要になります。そこで全国に先駆けて設立されたのが東京師範学校だったというワケです。

 

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アメリカからお雇い外国人マリオン・スコットを招聘

東京師範学校は、旧制小学校の教師を育成するため、江戸幕府の学問所だった湯島聖堂内に設置されました。

とはいえ建物だけあって人が育つはずもなく、そもそも教師を育成するための先生も必要です。そこで「先生の先生」として招聘されたのが、お雇い外国人のマリオン・スコット(米国人)でした。

マリオン・スコット/Wikipediaより引用

翌年、同校を卒業した一期生たちは、さっそく各地の教員養成期間や役所の教育担当として、新たな教員育成に携わっていきます。
富岡製糸場で勤めていた初期の女工たちが、実家に帰った後周囲の女性に技術を伝えたのと同じような感じでしょうか。

お上だけで主導するにも限度がありますし、「西洋に追いつけ追い越せ」のためには人員育成を急がねばならないので、このような手法が広く取られたのでしょう。

かくして東京師範学校の第一期生が卒業した後には、大阪・宮城・愛知・広島・長崎・新潟にも官立(国立)師範学校が設置され、小学校教員の育成が軌道に乗ると、次に旧制中学の教員育成が始まりました。

 

学費がなくても学べる代わりに軍隊化してしまい……

しかし、経営に余裕はなく、西南戦争による財政難で地方の官立師範学校は数年で廃止。
小学校教員の養成は各府県の師範学校が担当することになったため、東京師範学校は中等教育学校の教員育成に役割を変えていきました。

教員養成という目的も少しずつ進んでいましたが、同時に学内での問題も出てきました。
東京師範学校は官立であること、卒業後に教職へ就く代わりに授業料と生活の保証をするという制度になっています。現代でいえば防衛大学校のようなものですかね。師範学校の場合、給与は出ませんが。
このおかげで「学費が払えない」という理由で進学を諦めた人が多く集まる結果となりました。陸軍軍人・秋山好古などはその典型的な例です。

しかしその分「忠君愛国」が強調され、全寮制や服装規定などがほぼ軍隊と同等レベルの厳しさでした。
その閉鎖性のためか、寮内での上級生から下級生に対する「しごき」と称したイジメは深刻で、全寮制を廃止した師範学校もあったといいます。

人を教える立場になろうというのに、無意味な暴力を働くとは言語道断どころの話ではないはずなんですが……「先に生まれて多くのことを知っているほうがエライんだから、俺様に従わないやつはイビってやる」とかいう理屈なんですかね。なるほどわからん。

現代でも残念なことに学校・組織とイジメは切っても切れない関係にあります。いじめる側は100年前の人と同じ精神構造ということになりますね。ぜひ30字程度でいじめる合理的な理由を説明してもらいたいものです。

 

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あの柔道の嘉納治五郎が校長に! 

東京師範学校はその後「高等師範学校」となり、明治三十五年(1902年)には広島に同様の高等師範学校が設立されたため、「東京高等師範学校」と改称されました。

この頃、校長を務めた嘉納治五郎(かのう じごろう)が講道館柔道の創始者でもあったことから、東京師範学校でもスポーツが重んじられるようになり、かつての軍隊的慣習が一部緩和されたようです。
ふた昔くらい前のスポ根の元は、この辺にあるのかもしれませんね。

嘉納治五郎/Wikipediaより引用

大正に入って多くの高等教育機関が大学に昇格したため、東京師範学校でも「大学として認めてもらおう」という運動が高まります。
そして昭和四年(1929年)、「東京文理科大学」として新たなスタートを切りました。

教育や師範の字が見られませんが、これは「研究を主とする東京文理科大学に、教員育成を主とする東京師範学校が附属する」という形だったためです。師範学校側からすれば面白くありませんが、名称を巡って揉めに揉めてようやく落ち着いたところだったので、それ以上引き伸ばすことはできなかったのでしょう。

その後も大恐慌などによる財政難のため、文部省から「師範学校って官立じゃなくてもいいよねー廃止したいなー(チラッチラッ」という感じのイヤなチラ見せをされたりしました。実にお役所仕事ですね。

 

約40年の歴史を持って東京教育大学は閉鎖へ……

この扱いが変わるのは戦後、東京師範学校を含めた教員養成機関全般と、他の高等教育機関が統合され、新制大学の設置が決まってからです。
これにより、ずっと附加施設だった東京師範学校を教育大学に格上げし、「東京教育大学」となりました。

東京教育大学は、東京農業教育専門学校や東京体育専門学校を包括する形で設置されたため、教育学部以外の学部も多数あったのですが、この名前になったのは、やはり長年の悲願があったからでしょう。

その後、東京教育大学の移転を機に筑波大学への再編成が決まり、移行期間が数年間設けられた後、1978年に東京教育大学が閉学しました。「大学」と呼ばれていたのは40年弱程度となります。
移行期間中の学生は筑波大学への編入ではなく、東京教育大学での卒業とみなされたようなので、比較的最近まで東京教育大学を卒業した先生が現役だったということになりますね。

現代でも閉学というのはままあることですが、歴史的な背景を知ったり、著名人の出身校だったりすると、なんとなく寂しい気持ちになるような、ならないような。

長月 七紀・記




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参考:東京高等師範学校/Wikipedia 高等師範学校/Wikipedia 師範学校/Wikipedia

 





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