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その日、歴史が動いた 源平

源有綱が歴史の狭間に埋もれてしまったのは義経が目立ちすぎたから?

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どんな英雄も、一人で物事を成し遂げることはできません。より正しく表現すれば、「功績や逸話があるにもかかわらず、英雄の光でかき消されてしまった人々は数知れない」というところでしょうか。
今回はそんな感じの、密かな活躍と苦労をしていた人のお話です。

文治二年(1186年)6月16日は、源有綱(ありつな)が亡くなったとされている日です。

この時代の源氏ということで、もちろん源平の戦いにも関わっていますが、どうにもピンとこない名前ですよね。
というのも、有綱は源氏は源氏でも、頼朝や義経とはとても遠い親戚だからです。

 

祖は頼朝と同じ清和源氏 有綱は摂津源氏の流れを汲む

遡れば清和源氏であることは同じです。
が、有綱の6代前のご先祖様の時点で、頼朝たちに続く河内源氏の血筋と枝分かれしています。有綱のほうは「摂津源氏」という系統でした。

同じタイミングで分化していった「大和源氏」という系統もあります。
大和源氏も有綱の時代までは続いていたのですが、その後さらに枝分かれしていき、源姓ではなくなっています。

本来は、摂津源氏の初代・頼光、大和源氏の初代・頼親、河内源氏の初代・頼信という生まれ順なので、摂津源氏を清和源氏の嫡流と呼ぶべきなのかもしれません。
……って、そろそろ「源氏」の二文字がゲシュタルト崩壊しそうですので、有綱の話を始めましょうか。

有綱の少年時代のことは、あまりよくわかっていません。
反平家の嚆矢となった以仁王の挙兵の際に、有綱の祖父と父が敗死してしまい、有綱も伊豆に隠遁せざるを得なかったといわれています。
隠遁先は上野国(現・栃木県)だったという説もあるようで、なんだかんだで挙兵した頼朝の麾下に入り、共通の敵である平家討伐に力を尽くすことになりました。

有綱は頼朝の命で、寿永元年(1182年)から土佐方面の攻略を担当しています。このあたりに、頼朝の同母弟・希義(まれよし)の仇である平家方の武士がいたからです。
土佐出身の夜須行宗(やす ゆきむね)を案内役として、有綱は見事目的を果たします。頼朝からすれば、その実力を確かめるという目的もあったかもしれません。
義経の戦果が華々しく伝説的なために目立ちませんが、有綱もいい仕事をしていた、という感じでしょうか。

しかし頼朝からの評価も悪くはなく、義経の下で動くよう命じられています。
義経よりは常識的だったでしょうし、もしかしたらお目付け役というか重石というか、そんな類の期待をされたのかもしれません。この2人は年齢層や官位など共通点が多く、上下関係というよりは対等だったとされているので、目付役としてはあまりアテにならなかったかもしれませんが。

 

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義経が目立ちすぎて歴史の狭間に埋もれてしまった!?

「義経は奥州時代から付き従ってきた忠臣・佐藤兄弟の妹と娘をもうけており、その娘が有綱に嫁いだ」ともいわれています。義経の年齢からして、養女の可能性も高そうですが……。
もしくは、有綱と義経が良い関係を築いていたからこそ、後からそういった理由付けがされた、という可能性もありそうですね。

平家討伐の本番の頃に、有綱が何をしていたのかについてはよくわかりません。義経が目立ち過ぎというか、その義経の配下だったから目立たなくなってしまったというか。
どうせなら義経と梶原景時(壇ノ浦の戦い)の大人げないケンカのとき、有綱が仲裁に入ってくれれば、それなりに名前が知られていたと思うのですが。義経と仲が良すぎて援護射撃(口論)でもしちゃったんですかね。

平家討伐が終わった後、義経が頼朝と険悪な仲になってからも、有綱は義経に従っていたようです。

その後、義経と別れたものの、有綱も追われて大和国宇陀郡(現・奈良県宇陀郡)に潜伏。
文治二年の今日この日、義経方の残党を捜索していた北条時定の手勢に発見され、抵抗の末に山深くに入って自害したといいます。

ただし、潜伏先は下野国塩原(現・栃木県那須塩原市)だった、という説も。
中塩原温泉に、「有綱と家臣たちが潜んでいた」とされる鍾乳洞があるのです。
「源三窟」と呼ばれています。

 

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米のとぎ汁が川を流れて、鎌倉の追手に見つかって

「源三窟」には有綱たちの伝説が残っております。

「有綱と家臣たちは近隣の村から米や野菜を恵んでもらいながら、再起を夢見て隠れ住んでいたが、あるとき米のとぎ汁を川に流したところ、鎌倉の追っ手に見つかって討たれてしまった」

この辺の川は割と幅も勢いもありますから、多少米のとぎ汁を流したところで、大して目立たない気がするのですが……当時はもっと小さな川だったんですかね。もしくは、流した地点のすぐそばで見かけた、とかでしょうか。

数年前にワタクシここに行ったのですけれども、内部の写真を撮っていいか入り口で聞き忘れたせいで撮り損ねましたスミマセン。
潜伏するに相応しくかなり狭いので、三脚などは多分立てられないと思われます。もし撮影おkといわれても、スマホや小型のカメラが精一杯でしょうね。こういうところを保存するのは大変ですから、もしこれから行かれる方はお気をつけください。

どのくらい狭いかというと、身長159cmの私でもかがまないと通れないところがあるくらいです。大柄な人だとそもそも入れないかもしれません。
それでなくても鍾乳洞=足元に水気が多い場所ですので、あらゆる意味で注意が必要な場所です。
夏に行くと涼しくていいんですけどね。それはどこの鍾乳洞でも同じか。

また、すぐ横の武具資料館では、源三窟から見つかったとされる甲冑類などが展示されています。
悪霊が憑いているといういわくつきのものもあるので、見える人やそういうのが怖い人はご注意ください。

実は、塩原から40km弱ほどの位置にある湯西川温泉にも、平家の落人が逃げ込んだという伝承があります。
仮にこれらが両方共真実だとすると、「滅んだ側と滅ぼした側の両方がごく近隣に潜んでいた」ことになりますね。偶然ってスゴイ。
まあ、「平家の落人」が平家の血を引く人だとは限りませんけれども。

もし何かのきっかけがあって、有綱と平家の落人たちが合流して鎌倉に立ち向かうとか、地元の有力者である宇都宮氏と組むとか、協力して義経や奥州藤原氏の元を目指したりしたら、面白い流れになっていたかもしれません。
そういうIF小説でもあれば、ぜひ読んでみたいものです。

長月 七紀・記

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参考:源有綱/wikipedia 源三窟HP

 





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