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ラクシュミー・バーイー/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた アジア・中東 女性

インドに実在した伝説的女傑!ラクシュミー・バーイーに憧れて

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どこの国でも、平和な時代もあれば、戦乱が長く続く時代もあります。
そしていつの時代も、人は英雄を求めるものであり、少しでもそれに近い人がいれば多少の脚色すら厭わないこともありますが、いやいや、やっぱり世の中には本物純粋の英雄もおりまして。今回は、とある国の伝説的な英雄のお話です。

1858年(日本では幕末・安政四年)6月18日は、インドの女傑ラクシュミー・バーイーが戦死した日です。

日本史でいえば、巴御前が一番近いでしょうか。自ら武器を取って戦ったことや。前半生に謎が多い点も共通しています。
そしてこの時期のインドとなると、戦う相手は当然イギリス。彼女は一体どのようにして、戦禍へ巻き込まれていったのでしょうか。

 

嫁ぎ先のジャーンシー藩王国はイギリスに支配され

ラクシュミーの生年や、幼い頃の生活は明らかではありません。
別の国に庇護されていたともいわれておりますが、嫁ぎ先がジャーンシー藩王国(現在のインド中北部・ジャーンシーにあった国)の王様だったことからして、元からそれなりの身分はあったと思われます。

嫁いだのは1842年のことでした。
当時ジャーンシー藩王国は、インドに進出していたイギリスとの間に軍事保護条約を結んでいました。
「藩王国」とは、イギリスに従属する小国のことで、他にもいくつかありました。植民地主義時代にはよくあることですが、「後から来た乱暴なよそ者の支配下に入るとかマジ勘弁」と思ったでしょうね。

当然、藩王国はイギリスから多大な干渉を受けています。
その一つが「失権の原理」というものです。
これは「王が後継者を用意できずに亡くなった場合、王国ごと完全にイギリスのものになる」という政策でした。

日本でいえば、「無嗣断絶で改易の後、その藩の領地は天領(幕府の直轄地)になる」という感じでしょうか。江戸幕府は四代将軍・家綱の頃から末期養子(大名が今際の際になってから迎える養子)を認めていたので、イギリスがインドにやったほど過酷ではありませんが。
まあ、浪人の増加による治安悪化を防いだり、大名自身の夭折が相次いだりと、インドとはまた違った事情があったのですけれども。そもそも江戸幕府と諸藩の場合は同じ国の中のことですしね。

 

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実子を得られる望みが断たれて……無情な併合

そんなわけで、ラクシュミーと夫であるジャーンシーの藩王ガンガーダル・ラーオは、なんとしても実子を得なければなりませんでした。

しかしなかなか子供が生まれず、結婚9年目となった1851年にようやく男子を授かったものの、すぐに亡くなってしまいます。
しかも、1853年には肝心のガンガーダルが病で倒れてしまい、子供を作るどころではなくなってしまいます。

こうなっては実子を得られる望みはほとんどなく、ラクシュミーは養子を迎えるべくいろいろ努力を重ねました。しかしその甲斐なく、相手が見つかる前にガンガーダルが亡くなります。
そしてこれがイギリスのインド総督へ即座にバレてしまい、ジャーンシー藩王国は無情にも併合されてしまうのでした。

城を接収しに来たイギリス人たちに対し、ラクシュミーは「我がジャーンシー王国を決して放棄しない」と告げたそうです。
「遺された妻が嫁ぎ先の誇りを忘れない」というあたり、篤姫和宮を思い起こしますね。

一応イギリスも王族をいきなり放り出すわけではなく、年金を支給するようにはしていました。
そのためか、ラクシュミーも城を出て3年ほどは、静かに暮らしていたと考えられています。

 

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1857年インド大反乱で運命が変わる

しかし、1857年にジャーンシーのすぐ近くでインド大反乱が起きると、運命が変わってきます。
この乱はかつては「シパーヒーの乱」とか「セポイの乱」と呼ばれることが多かったですね。最近はインド大反乱と表記するほうが多いようなので、こちらで統一させていただきます。

反乱が起きた理由はいくつか推定されていますが、決定打ははっきりしていないようです。

「イギリス東インド会社が、現地人による傭兵・シパーヒーに給料を出し渋った」
「弾薬の保存に牛の脂と豚の脂が使われており、シパーヒーのほとんどがヒンドゥー教徒かイスラム教徒だったため、宗教的に許し難いことだった」
「北インド最大の藩王国・アワド藩王国を無理やり取り潰し、あらゆる職業の人が失業した」
などが挙げられています。

どれであっても「イギリスのゴリ押しにブチ切れたインドの人々の抵抗」という感じになりますね。
こうなると「反乱」という呼び方をするのも申し訳ない気がしますが、世界史のほとんどは西洋から見た言い方になっているので仕方がありません。

この乱が起きたとき、ラクシュミーがかつて住んでいたジャーンシー城にも、シパーヒーと民衆が押し寄せました。
ここに駐留していたイギリス人を降伏させたまではともかくとして、勢い余った彼らは、イギリス人捕虜を虐殺してしまいます。

かつての自分の家で起きたこの騒動を聞き、ラクシュミーは反乱軍とイギリス軍の仲介役になろうと姿を現しました。
しかし、イギリス側から「お前も加担したのか!」と疑われることになってしまいます。

こうなると覚悟を決めて戦う他に道はなく、ラクシュミーは私財を投じて傭兵を集め、さらに民衆から志願兵を募って軍を作りあげました。

そしてイギリス側についた近隣の藩王らを蹴散らし、ジャーンシー城奪回を成功させて、一気に反イギリス軍の象徴となります。

 

ラクシュミー自身もライフルを手にとって

トップが女性のためか、ラクシュミーの軍には女子供もいたといいます。

しかし士気は非常に高く、イギリス軍は大苦戦。指揮官ヒュー・ローズが「彼らは王妃のため、そして自分たちの国の独立のために戦っているのだ」と感嘆していたとか。
当時のイギリス国王はヴィクトリア女王ですから、世界史的に珍しい「女性君主同士の国家による戦い」と見ることもできますね。ラクシュミーはこのとき正式な国主ではありませんが。

ラクシュミーもまた、亡き夫や我が子のため、そして民衆のために戦うことを決めたのでしょう。
どこで扱いを覚えたのか、ラクシュミー自身もライフルを手にとって戦っていたといいます。

しかし、奮闘むなしく1858年4月にジャーンシー城は陥落。民衆の懇願により、ラクシュミーは僅かな兵とともに城を脱出しました。

真偽の程はわかりませんが、「ラクシュミーは逃げる途中でイギリス軍に捕まったが、自ら護送の兵を切り捨てて脱出した」という逸話があります。実際にできたかどうかはともかく、そういうことができそうな人物とみなされていたのでしょうね。

 

グワーリヤル城を奪い、果敢に戦い続けるが……

脱出の後は、北東に150kmほど離れたところにあるカルピという町で他の反乱軍と合流しました。
彼らは既に講和のタイミングをうかがっており、抵抗を続けようとはしていなかったようです。

これに対しラクシュミーは徹底抗戦を訴えたこと、そして女性であることによって孤立してしまいました。
嫌な話ですが「あるある」ですよね。
そして、そのうちここもイギリス軍に攻められ、再び脱出することに……。

次は、カルピから100km北にあるグワーリヤル城を計略で奪い、拠点としました。
この頃既に1858年の6月です。

グワーリヤル城/Wikipediaより引用

現代のインドでは、平均気温は既に30~40℃になる季節。当時どのくらいだったのかはわかりませんが、日本よりもはるかに暑いことは確実でしょう。この気温だけでも士気が下がりそうです。
地元の人からすればこの程度は当たり前なのかもしれませんが、暑さの中でも士気や統率が乱れなかったのは、ラクシュミーの求心力のおかげでもあったのかもしれません。

イギリス軍もラクシュミーの居所を知り、再三押し寄せてきます。
なんでラクシュミーにそこまで手間をかけるのかというと、彼女自身というより他の戦線の影響だと思われます。

インド大反乱では、各所でシパーヒーたちによるイギリス人虐殺や包囲戦が行われていました。中には女子供を巻き込んだものもありましたので、イギリス兵の怒りもかなりのものだったでしょう。戦争ですから、どっちもどっちですけれども。

ラクシュミーと兵は果敢に戦いましたが、1858年のこの日、亡くなります。
前線で指揮を取っているときに、狙撃されて戦死してしまったとされています。

 

「最も優れ、最も勇敢なる者」

彼女の墓はグワーリヤル城からさほど離れていないPhool Baghという場所にあるようです(残念ながら画像が見つかりませんでした)。
ラクシュミー剣を掲げながら騎乗している姿の像のほうが有名かもしれません。

ラクシュミー・バーイー像/Wikipediaより引用

ラクシュミーは美貌やカリスマ性、戦術やヨーロッパの社会通念・歴史など、英雄と呼ぶべき特徴を全て備えていたとされています。

当時のイギリスの士官いわく
「最も優れ、最も勇敢なる者」
インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーは
「名声は群を抜き、今もなお人々の敬愛を集めている人物」
と、時代を問わず評価されている女性です。

そもそも「ラクシュミー」もインド神話の女神の名前です。名は体を表すというか、崇拝に近い賛辞が与えられるのもわかる気がしますね。

「インドのジャンヌ・ダルク」という異名もありますが、ホワイトウォッシュのかほりが漂う呼び方よりは、やはり本名かつ地元の女神の名を冠したラクシュミー・バーイーの名をそのまま称えるべきでしょうね。

長月 七紀・記

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参考:ラクシュミー・バーイー/Wikipedia

 





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