秋山真之/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 ゴールデンカムイ特集 その日、歴史が動いた

バルチック艦隊を撃退した秋山真之(さねゆき)の策「本日晴朗ナレドモ波高シ」

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大正七年(1918年)2月4日は、旧軍の海軍中将・秋山真之(さねゆき)が亡くなった日です。

明治以降の人については苗字でお呼びすることにしているのですが、今回の場合は彼のお兄さんも有名な軍人さんですので、下の名前で統一させていただきますね。

 

母親に「お前を殺して私も死ぬ」と言われた!?

では、真之の小さい頃から見ていきましょう。
彼は慶応四年(1868年)4月に、松山藩士の家に生まれました。戊辰戦争中の生まれと考えると、なかなかスゴイ話ですね。

長じてからの写真は軍人なのがちょっと信じられないくらいに静かな印象の方ですが、実はこの時期にはいろいろな伝説を持っていたりします。

戦争ごっこで遊んでいたというのはともかく、本を参考に花火を自作してぶっ放したり、なかなかの悪ガキ(褒め言葉)だったそうで。
あるときは母親に「お前を殺して私も死ぬ」と言われるほどだったそうです。何したんですかね。
最近のお母さん方も「ダンスィ」なる単語で男の子の愉快な生態を表現されていますが、いつの時代も母親の苦労は変わらないようです。

しかし、塾で漢学や和歌を学ぶうちに落ち着きはじめ、15歳のときには「太政大臣に、俺はなる!」(※イメージです)と志して勉強により力を入れるようになりました。
そして最終的には、大学予備門(現在の東京大学教養学部)に入るまでになっています。どんだけだよ!

 

子規や熊楠と共に東大で学ぶ

ここで同郷の歌人・正岡子規や、明治屈指の変人・南方熊楠らと共に学んでいます。

しかし、真之は家のお財布事情を思いやって、学問の道を出て、自ら海軍兵学校に入りました。

文から武というダイナミック路線変更はなかなか例がなく、もしかしたら教育勅語の影響かもしれませんね。これまた後々の話なのですが、亡くなる前にも教育勅語をよく口に出していたそうですから。

軍に入ってからは、エルトゥールル号遭難事件で生存者の救助にあたったり、実務以外にも名誉ある仕事をしています。

また、海軍の留学制度ができてからはヨーロッパで学び、米西戦争の観戦武官として現地に行ったこともありました。
観戦武官というのは、文字通り戦争の当事者ではない国の武官が戦争を見学する制度です。大山巌も普仏戦争の観戦武官として現地に行ったことがあります。

中でも、アメリカ軍によるサンチャゴ港閉塞作戦を見学できたことは、真之の大きな財産になりました。

これを日露戦争のハイライトの一つ・旅順港閉塞作戦の参考にしたといわれているのです。
戦術や戦略に限りませんが、「似たような状況をどのくらい知っているか」ということは、実務の上で有利になりますからね。

 

「本日晴朗ナレドモ波高シ」

35歳のときには海軍大学校の教官になり、その翌年には結婚、公私共に充実した毎日を送っていました。これがリア充か。

しかし、ときは国家間の陰謀渦巻く20世紀初頭です。真之もリア充生活を謳歌しているわけには行きませんでした。日露戦争に赴く海軍の参謀として、彼は旅順口攻撃や旅順港閉塞作戦などに参加しました。

あの日本海海戦でバルチック艦隊の迎撃を提案したのも、真之だったといわれています。だからこそ上記の観戦武官としての経験が生きたのでは?と、されるわけですね。

このときの有名な一文として「本日晴朗ナレドモ波高シ」「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ」などがありまして、これも真之が考案したものといわれています。文学を学んでいた名残ですかねぇ。
現代でも「ホウ・レン・ソウ(報告・連絡・相談)」の大切さはあちこちで言われていますけれども、簡潔で正確な文章というのは、なかなか難しいものですよね(ブーメランが突き刺さる音)。

東郷平八郎(戦艦三笠の艦上にて)/wikipediaより引用

ところで、真之のこんな発言が残っています。
「日露戦争のとき、敵船の布陣が夢に見たのと同じだった」と。

また、これより以前と思われる時期に、昭憲皇太后が「日本海軍をお守りします」と言う侍の夢を見たことがありました。

皇太后はどうにも気がかりで、宮内大臣の田中光顕に話したところ「この写真の人物ではありませんか」と尋ねたそうです。
その写真は、日露戦争より38年前に暗殺された、坂本龍馬のものでした。

 

第一次世界大戦をヨーロッパで視察

オカルトな話ではありますし、昭憲皇太后の夢については、「同じ土佐出身だった田中が、一般市民の高揚のために作った創作だ」とする説もありますが……。

もし、幽霊というものが本当に存在していて、この二つの話も事実だとしたら、真之も龍馬から夢のお告げでも受けたのでしょうか。
そして、自身が亡くなったときには龍馬に会い、お礼を言ったかもしれないですね。

「幽霊とか信じてんの?w」と思われる方も多いでしょうけれども、まあ想像するのは自由ですから。

まぁそれはさておき、真之は戦後も順調に軍の中で昇進していきました。

ときには軍と政治の両方に関わるような件にも関わっており、周囲からの信頼ぶりがうかがえます。
その後は自らの経験からか、留学生の受け入れを推進したりしていました。

第一次世界大戦の際には、再びヨーロッパへ渡って視察。
朝鮮半島からシベリア鉄道を使って、ロシアやフィンランドに行き、フランス・イタリアを巡った後アメリカへ渡り、一年半ほどで帰国しています。

その後は艦隊を一つ任せられるほどの地位につきましたが、この頃から体調が優れず、自ら辞職を選びました。

 

晩年は、学問として心霊や宗教を研究す

死が近いことを自覚していたのか、晩年は霊や宗教の研究を進めていたそうです。

といってもよくある「病気を治したいあまりに、いきなりうさんくさい宗教にハマってしまった」という感じではなく、あくまで学問として研究していた節があります。日蓮宗に帰依してはいたようです。

しかし、49歳のとき虫垂炎(昔”盲腸”と呼ばれていた病気)を悪化させてしまい、腹膜炎になって亡くなってしまいました。

一応、箱根で療養していたそうなのです。虫垂炎って経過観察で治るものじゃないんですよね……一昔前まではやたら手術で切る病気でしたし。大正時代はどうしていたのでしょうか。

9歳年上の長兄・好古より12年も先に世を去っていますし、諸々の逸話からすると相当惜しまれて亡くなっただろうと思いきや、具体的な逸話が見つかりませんでした(´・ω・`)
いや、二人とも軍人ですから、他者に涙を見せるようなことはしなかったのでしょうかね。そう思っておきましょう。

好古もネタ……もとい逸話が多い人なので、またいずれお話したいと思います。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
秋山真之/wikipedia

 



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