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【秋山真之】
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「本日晴朗ナレドモ波高シ」
35歳のときには海軍大学校の教官になり、その翌年には結婚、公私共に充実した毎日を送っていました。
しかし、ときは国家間の陰謀渦巻く20世紀初頭です。真之もリア充生活を謳歌しているわけには行きません。
日露戦争に赴く海軍の参謀として、彼は旅順口攻撃や旅順港閉塞作戦などに参加します。
あの日本海海戦でバルチック艦隊の迎撃を提案したのも、真之だったといわれています。だからこそ上記の観戦武官としての経験が生きたのでは?と、されるわけですね。
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このときの有名な一文として「本日晴朗ナレドモ波高シ」「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ」などがありまして、これも真之が考案したものといわれています。文学を学んでいた名残ですかねぇ。
現代でも「ホウ・レン・ソウ(報告・連絡・相談)」の大切さはあちこちで言われていますけれども、簡潔で正確な文章というのは、なかなか難しいものですよね。
ところで、真之のこんな発言が残っています。
「日露戦争のとき、敵船の布陣が夢に見たのと同じだった」
また、これより以前と思われる時期に、昭憲皇太后が「日本海軍をお守りします」と言う侍の夢を見たことがありました。
皇太后はどうにも気がかりで、宮内大臣の田中光顕に話したところ「この写真の人物ではありませんか」と尋ねたそうです。
その写真は、日露戦争より38年前に暗殺された、坂本龍馬のものでした。
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オカルトな話ではありますし、昭憲皇太后の夢については、「同じ土佐出身だった田中が、一般市民の高揚のために作った創作だ」とする説もありますが……。
第一次世界大戦をヨーロッパで視察
真之は戦後も順調に軍の中で昇進していきました。
ときには軍と政治の両方に関わるような件にも関わっており、周囲からの信頼ぶりがうかがえます。
その後は自らの経験からか、留学生の受け入れを推進したりしていました。
第一次世界大戦の際には、再びヨーロッパへ渡って視察。
朝鮮半島からシベリア鉄道を使って、ロシアやフィンランドに行き、フランス・イタリアを巡った後アメリカへ渡り、一年半ほどで帰国しています。
その後は艦隊を一つ任せられるほどの地位につきましたが、この頃から体調が優れず、自ら辞職を選びました。
死が近いことを自覚していたのか、晩年は霊や宗教の研究を進めていたそうです。
といってもよくある「病気を治したいあまりに、いきなりうさんくさい宗教にハマってしまった」という感じではなく、あくまで学問として研究していた節があります。日蓮宗に帰依してはいたようです。
しかし、49歳のとき虫垂炎(昔”盲腸”と呼ばれていた病気)を悪化させてしまい、腹膜炎になって病死。
一応、箱根で療養していたそうなのです。虫垂炎って経過観察で治るものじゃないんですよね……一昔前まではやたら手術で切る病気でしたし。大正時代はどうしていたのでしょうか。
9歳年上の長兄・好古より12年も先に世を去っていますし、諸々の逸話からすると相当惜しまれて亡くなっただろうと思いきや、具体的な逸話が見つかりませんでした(´・ω・`)
いや、二人とも軍人ですから、他者に涙を見せるようなことはしなかったのでしょうかね。そう思っておきましょう。
好古もネタ……もとい逸話が多い人なので、いずれまた注目したいと思います。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
別冊宝島編集部『日本の軍人100人 男たちの決断』(→amazon)
秋山真之/wikipedia