明治二十年(1887年)1月17日、昭憲皇太后が洋装に関するお召書を出しました。
明治時代になって、男性は洋服を着る機会が一気に増えました。
しかし、女性はというと、まだまだ和装で過ごす人のほうが多かったのです。
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和服は女子の活動を著しく制限し不便
明治時代まで女性が立ち働くということがあまりなく、さらに洋服が高価だったためでしょう。
需要が上がらなければ国内で作ろうという業者も出てきませんし、より一層普及が遅れてしまいます。
そこで女性の見本ということで、昭憲皇太后は積極的に洋服を着ていました。
宮中の式典でも、一定以上の身分の女官の正装を洋服にしています。
それでも一般の人々にはなかなか洋服が広まらなかったので、この日に【お召書】という形で、改めて洋服を推奨したのです。
第一の理由は「和服は女子の活動を著しく制限し、不便である」というものでした。
昭憲皇太后自身、維新まではまさに“深窓の姫君”といった生活です。
東京へ来て、あちこちに行啓(皇后や皇太子などのお出かけ)をするようになり、和装の不便さを実感したのでしょう。
女子教育も本格的に始まり「これからは女性も積極的に外に出て活動するべき」と考えたであろうことは想像に難くありません。
肌の白さは七難隠す……運動なんてもってのほか
当時の女学校は文字通り「箸より重いものは持ったことがない」お嬢さまたちばかりでしたので、外出はともかく「外に出て運動する」という概念がありませんでした。
体育の授業や運動会が始まったときも、戸惑う人が多かったといいます。
当時の新聞でも「最近のお嬢さまは縄跳びなんぞをなさるんだってよw 白い足が拝み放題だなwww」(超訳)なんて書き方をされていたことがあるくらいです。
いつの時代も、不埒な輩はいるものですね。
まぁ、まだ運動着などがなかった時代なので、女袴(行灯袴)=ロングスカートのようなものを着たまま飛んだりはねたり走ったりすれば、足が見えるのは当たり前のことなのですが。
親のほうでも「外で運動などして、日焼けしたら嫁の貰い手がなくなってしまう」という懸念を持っていたために、女性の活動範囲の拡大はなかなか進みませんでした。
古くから「色の白いは七難隠す」なんて言葉がある通り、肌の白さこそ美人の条件の一つだったからです。
これは私的な想像ですが、恐らく貞明皇后(大正天皇の皇后)が入内するまでは、こういった考えのほうが強かったでしょうね。
貞明皇后は小さい頃、田舎の農家に預けられて育っており、「九条の黒姫様」というあだ名がついたほどでしたから、このあたりでやっと「身分が高くても、日焼けを気にするより、外で遊んで体を丈夫にするほうがいい」という考えが定着したのではないでしょうか。
いろいろな伝染病も流行りましたし、健康への関心が高くなったという面もあるでしょう。
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