グナエウス・ユリウス・アグリコラ/wikipediaより引用

ローマ その日、歴史が動いた

嫉妬のせいで総督をクビ!? ローマ軍人グナエウス・ユリウス・アグリコラ

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40年7月13日は、グナエウス・ユリウス・アグリコラというローマの軍人が誕生した日です。

「グエナウス」だとローマ時代だけで同名の人物がたくさんいますので、彼のことは以下「アグリコラ」で統一しますね。

ちなみに、アグリコラはラテン語で「農民」を意味する姓なんだとか。
英語でも農業のことを「アグリカルチャー」といいますし、何となく彼も農民出身のように思えてきますが、そうでもありません。

彼の生涯をみていきましょう。

 

ウェスパシアヌスの命でブリタンニア(現在の英国)

アグリコラは現在のフランス南部に生まれ、マッシリア(現在のマルセイユ)で育ったといわれています。
父親は元老院議員でしたが、政争によって死罪となってしまいました。

そのためか、直接政治家の道に行くよりも武官の道を選び、若いうちからローマの軍隊に入ってトルコ西部などに遠征していたようです。
20代後半の頃には護民官・法務官などの要職に就いていますから、早いうちから将来を期待されていたのでしょう。

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しかし、元老院と仲違いして自殺すると、しばらく帝位が不安定になります。

ここでアグリコラは、中東・ユダヤ属州から支持されていたウェスパシアヌスという人に賛同し、ウェスパシアヌスが皇帝になりました。
その後、かつてウェスパシアヌスも手がけていたブリタンニア(現在のイングランド+α)駐留を命じられています。

茶色がブリタニアの領域/photo by Michiel1972 wikipediaより引用

皇帝がいないのでは、地方&ローマ人以外の民族が多数派の属州で「今こそローマ人追い出そうぜ!」という動きが出てくるのも当然のことです。

ブリタンニアの場合、当時の総督が温厚すぎて鎮圧できなかったんだとか。
職務怠慢と言えば、そうなるんでしょうが、なんだか怒れませんね。

もともとブリタンニアについては、アグリコラが生まれた頃(カリグラの時代)に攻略計画が立てられ、肝心のカリグラが暗殺されてしまったため攻略が遅れていました。

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84年にスコットランドの南半分までを鎮圧

それもあって、強硬派の総督に変わってから鎮圧軍を組織。
アグリコラも活躍して武功を上げ、フランス西部の総督に任じられました。

一度ローマに戻って補欠執政官(皇帝の補佐みたいな仕事)に就いたり、娘の結婚が決まったりと、良いことが続いています。

娘婿は歴史家のタキトゥスで、アグリコラの功績についても書き記しました。
教科書などでは「ゲルマニア」という現在の中欧諸国に関する書物の作者として紹介されていますね。

その後、アグリコラは総督として再びブリタンニアに赴いています。
ウェールズやスコットランド、アイルランドにも行ったようです。ほぼ現在のイギリスと同じ範囲ですね。

84年には、スコットランドの南半分まで鎮圧しましたが、最終的にローマの支配が及んだのはもう少し南、ハドリアヌスの長城まででした。

ハドリアヌスの長城

また、アグリコラは軍の一部に船を出させて、ブリタンニアが島であることを確かめています。
……そんなことをしなくても、ちょっと水を舐めてみればわかる気がするのですが……多分、この時代のローマ人に塩湖の存在は知られていないでしょうし。
地形調査も兼ねていたんでしょうか。

まあそれはともかく、85年、アグリコラは総督を解かれ、ローマに戻りました。

 

えっ? 理由は嫉妬? ローマ皇帝の微妙な立場

特に落ち度もないのに任を解かれるというのも不思議な感じですが、これは時の皇帝のちょっとした嫉妬からだったようです。

というのは、当時の皇帝・ドミティアヌスが軍人出身だったため、
「アグリコラをほっといたら俺よりスゴイ武功を挙げてしまう! そうなるとマズイ!」(※イメージです)
という懸念を抱いたのでした。

ローマの皇帝は絶対的な支配者ではありません。
より相応しい人がいればブッコロされて強制的に交代ということもあったので、ドミティアヌスの懸念も自然なことです。

それでいてアグリコラを暗殺しなかったあたりは優しい処置ですよね。
ドミティアヌスは疑心暗鬼が強く、他の人は割と(ピー)しているのですが。

まぁ、アグリコラを止めなければスコットランド全土を支配下に置けていたかもしれませんし、その辺に対する引け目があったのかもしれません。

そんな罪悪感からなのか。
ドミティアヌスはアグリコラへアフリカ総督の地位を用意しました。

ただし、アグリコラが断ったので実現はしません。
理由は不明ながら、アグリコラが93年に亡くなっているので、ローマに戻って老いを感じていたのでしょうか。

しかし、島かどうかもわかっていなかったような頃からヨーロッパ大陸の軍にしょっちゅう攻めこまれて、よくブリテン島の人々はアイデンティティーを保てたものですね。
逆に大陸へ攻め込んだこともありますし、島内でもドンパチやってます。
日本のように高波や台風に守られているわけでもありません。

ブレグジットでスコットランド独立やらその他諸々の問題がまた持ち上がっていますが、何だかんだで文化を保ち続けるような気がします。

長月 七紀・記

【参考】


『ローマ皇帝歴代誌』(→amazon link

グナエウス・ユリウス・アグリコラ/wikipedia
ブリタンニア/wikipedia

 



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