春日局/Wikipediaより引用

徳川家 その日、歴史が動いた

春日局の経歴ヤバい!明智家重臣の家に生まれ、夫と離縁し、将軍家光の乳母に

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明正二十年(1643年)9月14日は、春日局(かすがのつぼね)の命日です。

江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母として知られますよね。

ようやく戦国時代も終わり、徳川将軍に強い影響を与えた女性だけに、さぞかし華やか&高貴な道を歩んできたのだろう……と思われる方もおられるかもしれませが、実際はさにあらず。

「前半生はひたすら真っ逆さま、後半生はバタバタしっぱなし」

そんな忙しい人生を送った人でもあります。
順を追って見ていきましょう。

 

春日局の父ちゃんは明智家重臣・斎藤利三です

春日局の本名は斎藤福と言います。
普段は、わかりやすいほう(今回なら春日局)で統一するのですが、前半生については本名で進めますね。理由は後ほど。

まず彼女の父親は、明智光秀の重臣・斎藤利三としみつです。

山崎の戦いに敗れ堅田に逃れた斎藤利三/wikipediaより引用

明智光秀は山崎の戦いの後、落ち武者狩りで深手を負い、自害しました(介錯したのは溝尾庄兵衛)。

このとき利三は、光秀と別行動で逃げていたのですけれども、豊臣秀吉の追っ手に捕まって処刑。
当然のことながら娘の福たち斎藤家の人々も追われることとなります。

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彼女がその後どうやって逃げ延びたのか。
どの辺で育ったのか。

詳細は不明ですが、縁戚にあたる四国の長宗我部家に身を寄せていたという説もあります。
あるいは縁戚の公家に厄介になって、さまざまな教養を身につけたとか。

そんなこんなで年頃の女性に成長した福は、親戚のツテで稲葉一徹の義理の孫・稲葉正成の妻となりました。

稲葉正成は小早川秀秋の家臣だった人で、関が原の戦いで東軍への寝返りを勧めた人物でもあります。
が、関が原の戦いから間もなく秀秋とケンカして隠居とほぼ同様な扱いになり、そうこうしているうちに秀秋が若くして亡くなるという不幸が続きました。

 

夫と別れ、息子を連れて江戸へ引っ越し

福は、浪人となった正成にしばらく付き従っていたと思われます。

が、あるとき京都で
「次期将軍様の乳母募集! 詳細は京都所司代まで」(※イメージです)
という求人情報を得ます。

「これだわ!」と直感した福は即座に応募し、見事採用されました。

乳母になるためには単身・住み込みで江戸城へ行かなくてはいけません。

夫妻のどちらが言い出したのかはこれまた諸説あるのですけれども、結果的に福は離婚を選び、長男・正勝だけを連れて江戸に移り住みました。

息子の稲葉正勝は江戸幕府で出世を果たす/wikipediaより引用

 

お江と福の間には女の戦いがあった!?

幼い家光の乳母となった福。
彼女は公私共に、家光に大きな影響を与えていきます。

「福が家光を可愛がりすぎるので、両親の秀忠・お江は家光よりも次男・忠長を寵愛した」
「お江と福の間には女の戦いがあった」

などなど、このあたりから福に関するコワイ逸話が出てきますが、おそらくは後世の創作と見られています。

家光が生来病弱で神経質な傾向があったのに対し、忠長は健康で明るい性格だったということから、「周囲の人間関係が影響したに違いない」と考えた人がいたのでしょう。
ドラマなどではそのほうが面白いですしね。

もしくは、福があまりにもマジメに乳母の仕事をしたからこそ、そういう話ができたのかもしれません。

福の忠勤振りを示す逸話として、こんなものがあります。

 

レインボーゴハンで食事嫌いを克服だ!

上記の通り、家光が生まれつき体の弱い人だったというのは有名な話です。
その大きな原因の一つと目されているのが「好き嫌いの多さ」でした。

福の最初の大仕事は、家光の偏食をどうにか克服させ、栄養をきちんと採らせることだったのです。

そこで福が考え出したのが「七色飯」というものでした。

七色といってもレインボーの七色ではありません。
当時は合成着色料とかないですしね。

「七種類の味のご飯を出せば、毎日どれか一つは食べる気になるだろう」という作戦。

【白飯・赤飯・麦飯・粟飯・菜飯】と何となく想像のつくものから、【干し飯・引き割り飯・湯取り飯】という現代人には馴染みのないものまで様々なご飯を用意したのです。

干し飯は、干した飯をお湯で戻したものです。
引き割り飯は、お米を砕いて細かくしてから炊いたご飯のことでした。

そして、最後の湯取り飯というのは、蒸らす前のご飯を釜から出して、粘り気を洗い流してから蒸すというとても手間のかかったものでした。

毎日これだけ用意させられるほうも大変だったでしょう。
しかし、この「たくさんある中から好きなものを選ぶ」という方式が家光は気に入ったらしく、少しずつ食事をきちんと採れるようになっていきました。

家光が選ばなかったものは、下働きの人が食べてたんでしょうかね。
バラエティ番組でよくある「料理はスタッフが美味しく食べました」みたいな……って、違うか。

 

名実ともにコワい女には間違いない

そんな感じで何から何まで家光の面倒を見ていたのですから、家光が頼りにするのも、周囲の人が「あの人に逆らったらヤバイ」と思うのも当たり前のことでしょう。

彼女の本名より【春日局】という女房名が有名になったのも、その権勢と縁戚の公家の力を利用して、ときの天皇(後水尾天皇・家光の姉和子が入内した相手)に賜った名前だからです。

かの有名な大奥を作ったのも彼女ですし、これでは名実共に「コワい女」扱いされるのも無理はありません。
仕事「だけ」熱心に見える人が煙たがられるのも、古今東西よくある話ですしね。

しかし、つい最近彼女の別の面を思わせる、とある手紙が発見されました。

おそらく春日局の直筆と見られていて、西本願寺の僧侶に向けて書かれたものです。

「私の部下の母親がそちらにいると聞いたので、ぜひ同じところで働かせてやってほしい」

という内容で、心優しき一面を垣間見せるものでした。

 

「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」

彼女が絶大な権力を持っていて厳しい人だったというのは、たぶん間違いないのでしょう。

家光の側近だった息子・稲葉正勝もそれなりに出世を果たしますが、権勢をふるって強引なことをした――というような話は残っておりません。

戦国期のクライマックスで若い頃から苦労し、織田信長や豊臣秀吉の勃興&没落を見てきただけに、
「急に出世した者がずっとうまくいくはずはない」
と考えていたのかもしれません。

まぁ、とある大名息子の縁談に横入りして、江戸城初の刃傷沙汰の原因を作ったりもしているのですが……これも最初から刃傷沙汰を狙ってやったわけではないでしょう。

春日局としては子孫に累の及ばないように気を配っていたのかもしれません。
残念ながら長男・稲葉正勝には先立たれ、次男は諸々の経緯があって罪人扱いになってしまいますが、なんだかそれを見越していたかのような辞世の句を残しています。

「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を 逃れけるかな」

「ありがたい仏の教えのおかげで、今日やっと西の空に沈んでゆく月と共に逝くことができる」
くらいの意味でしょうか。

火宅とは仏教用語で「煩悩の多いこの世」という意味です。
煩悩を火に例えているものと思われます。

死の間際になって、家光のために奔走したことや、政治的に策謀を巡らせたことなどが「業の深いことだった」と感じていたのかもしれません。

ともかく、家光が無事に成人して将軍をやれるようになったことは、きっと満足していたんでしょうね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon link
春日局/Wikipedia
日本経済新聞

 



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