「母校の思い出」と言われたら、まっさきに何を思い浮かべますか?
日常の他愛ない出来事や、テスト前の猛勉強、学校行事の数々など、いろいろありますよね。しかし、校風や学校の創立理念など、実体がないものはなかなか出てこないのではないでしょうか。
本日はそんな感じのことを思い浮かべながら、「教育」について少々お話をしたいと思います。
天長五年(821年)12月15日は、空海が綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)という学校を設置した日です。
現代では仏教を重んじる学校も珍しくありませんが、この学校は当時の教育機関について、空海が少々思うところがあり、作ったものでした。
公家の藤原三守に屋敷を提供してもらいスタートするも
綜芸種智院は、庶民を対象とした学校です。
当時の教育機関は、都に置かれた「大学」と、地方ごとに置かれた「国学」の二つしかなく、ほとんどの生徒は身分の高い家の出身でした。一応、身分の低い人も入れなくはなかったのですが、空海は「それじゃ庶民にはやりにくくて仕方がない。一般人も貴族も分け隔てなく学べるような学校を作るべきだ」と考えました。
これには、空海が仏教の僧侶であったことも関係しています。
というのも、大学や国学では儒教をベースとした教育を行っていて、仏教や道教(不老不死を目指して修行する中国の宗教)はカリキュラムに入っていませんでした。
空海からすれば「御仏の教えを広めるためには、大学や国学で仏教の授業を始めるように頼むより、新しく学校を作ったほうが効率がいいし、角も立たないだろう」というわけです。儒教を最高と考えているエライ人達より、まっさらな庶民のほうが素直に話を聞いてくれるでしょうしね。
そんなわけで、空海は理念を固め、貴族や庶民に「こんな学校を作りたいのですが、皆さん協力してもらえませんか」と呼びかけました。
そして公家の藤原三守(ただもり、もしくはみもり)が京都の九条あたりに屋敷を一つ提供してくれ、とりあえず場所を確保することに成功します。
しかし、空海入寂の後、真言宗は自分たちの信仰を守るのが精一杯で、綜芸種智院の運営まで手が回りませんでした。そのため、この建物は売られ、学校も廃止されてしまっています。
明治時代になって、「空海の理念をもう一度」というねらいのもと、「総黌」という学校が作られました。現在の学校法人綜藝種智院です。
ついでに、他の宗教は教育をどのように考えていた(る)のか、簡単にみていきましょう。
・キリスト教(カトリック)の場合
カトリックでは、「庶民は読み書きなんぞできなくて良い」という考えが主流、という時代が長く続いていました。
というのも、庶民が文字を読めてしまうと、聖書や行事などの矛盾を指摘されてしまったり、個々が”勝手に”ものを考えるようになって、教会の支配がしにくくなるからです。ひでえ。
かのジャンヌ・ダルクも読み書きができず、彼女に関する書類は全て代筆者が書いていた、というのは有名な話ですね。唯一直筆とされる彼女のサインも、つづりが間違っており「ジャンヌは読み書きを習ったことがなかっただろう」という説の根拠となっています。
そんなカトリックの中で、イエズス会は教育に関しては異端とも呼べる存在です。会の創立が大学の同窓生たちによるものだったからか、イエズス会は教育を非常に重視しました。創立から数十年で74もの大学を作っているくらいです。
また、スペインの植民地が多かった南米でも、積極的に読み書きを教えました。まあ、これは布教のためでもあったのですが。
多分イエズス会士からすれば「未開の地の住人に、読み書きと神の教えを理解させることは素晴らしい仕事だ」と思っていたでしょうから、善意のほうが強かった……と思いたいところです。
・キリスト教(プロテスタント)の場合
一方、プロテスタントでは「聖書を理解するための教育」という概念が強かったと思われます。プロテスタント(ルター派)のはじまりが「聖書に書いていないことはやってはいけない」=「聖書に書かれていることを一言一句覚えていなければならない」なので、当然といえば当然でしょうか。
それを示すエピソードが一つあります。
マルティン・ルターが活動していた頃、彼の地元であるドイツはドイツ農民戦争で荒れ果てており、聖職者でさえ聖書の内容はうろ覚え、というすさまじいことになっていました。
これを「どげんかせんといかん」と考えたルターは、庶民でも聖書を正しく理解できるような手引書を作ろうと考え、さっそく執筆をはじめました。これが「小教理問答書」という本です。同時に、聖職者が聖書を学びなおすための「大教理問答書」も書きました。
これらは現代に至るまで、ルター派の伝道や教育のために広く使われています。
日本の教育機関でもカトリック系・プロテスタント系といろいろありますが、現代では宗派の違いよりも、校風の違いとして意識したほうがよさそうです。厳しいところは厳しいですし、比較的自由なところも珍しくないですからね。
・ユダヤ教の場合
歴史を通して、子供の教育に一番熱心だといえるのは、ユダヤ教徒かもしれません。
なんと、紀元前の時代から「子供には可能な限り良い教育を受けさせるべき」と考えられていて、無償の学校も存在していたのです。子供をより良い学校に通わせるために、借金をする親も珍しくはなかったとか。
これは、ユダヤ教徒が教育へ真面目に取り組んだことの他に、彼らの境遇が大きく影響している可能性があります。
世界史ではたびたび出てくる話ですが、ユダヤ教徒=ユダヤ人は、多くの国で厳しく迫害されてきました。そのため、「汚いもの」であるお金を扱う仕事も押し付けられています。その結果、富裕層も増えたわけですが、差別されることには代わりありません。
むしろ「あいつらは汚らわしい一族なのに、なんで俺たちよりもいい暮らしをしているんだ!」とやっかまれることさえあったのです。
そうした迫害を受ける中で、信仰を保ちながら、実用的な知恵を身につけるために教育を最重視してきたのでしょう。
数千年に渡ってそういう概念を続けてきたのですから、現代の大富豪にユダヤ系が多いのも、なるべくしてなったと見るべきかもしれません。
・イスラム教の場合
残念ながら、世界的にあまり印象が良くない状態が続いているイスラム教。「女性に対する教育が進んでいない」「女性の人権が認められていない」ということもその理由です。
一部の過激派や極端な教えが目立つために勘違いしがちですが、イスラム教の成り立ち等を考慮すると、そういった考えになる経緯が見えてくるように思えます。
皆さんご存じの通り、イスラム教はアラビア半島で生まれた宗教です。同地の最大の特徴といえば、もちろん砂漠。雨が降らないことはもちろん、昼夜の温度差が大きく、おおよそ住みやすいとはいえない土地柄です。
イスラム教は、そうした土地で秩序ある社会を築くための礎となってきました。
しかし、全ての人が教えにのっとった生活ができるわけではありません。特に、力が弱い女子供はアレコレのターゲットになります。
ムスリム女性が布で体を覆い隠すのは、性的魅力を隠すためです。また、「女性は家から出てはならない」「自由恋愛などもってのほか」というのも、性的な暴力に遭わないように、という配慮からきています。
現代でもこの辺を理由として、「家の名誉を守るため」に自由恋愛をした女性が家族に殺害されるという事件がありますが、手段と目的が入れ替わってしまっているわけですね。
また、教育を受けると、それを活かすために外に出ていきたくなるものです。
これらが矛盾するために、敬虔なムスリムほど「女性は家で家事と子育てをするのが一番大事なのだから、教育なんて受けなくてよろしい。外に出たら危ないし」ということになります。
この辺がなかなか噛み合わず、今も女性への教育が進まない国が多いわけです。
最近では、ムスリムの国でも教育を重視する考えが出てきており、女性を対象とした学校も作られています。
これについては池上彰さんがとてもわかりやすいレポートを作っていらしたので、リンクを貼っておきますね。
◆池上彰が明かす! イスラムビジネス入門 パキスタン編-教育編(日経ビジネスオンライン)
教育を受けられるということは、とても恵まれたことです。
最近はそれが当たり前になってしまったせいで、ありがたみを感じられずにいろいろとやらかす人もいますが……。
学生という身分は多くの人の思いやりと努力によって成り立つものであって、「お金払ってるからいいじゃん」というものではないのだということを理解していただきたいものです。無理かな(´・ω・`)
長月 七紀・記
参考:綜芸種智院/wikipedia 空海/wikipedia イエズス会/wikipedia ユダヤ教/wikipedia 小教理問答書/wikipedia