フランス語で「ムッシュー・ド・パリ」。
日本語にして「パリの旦那」といったイメージでしょうか。
まるでカフェでも経営しているオシャレな人を想像してしまうかもしれません……が、まったく違います。
「パリの処刑人」――冗談ではなく、かつてヨーロッパには都市ごとに処刑人が存在しておりました。
彼らは歴史においては脇役に過ぎません。
覚悟を決めて首をさしのべる人物の横で、冷たい表情を浮かべて斧なり剣なりを持っている男です。
一般の人々にとっては、できるだけ関わりたくない存在であり、それゆえ彼らは隔離地域に暮らすこともありました。
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心優しく慈愛に満ち、死刑反対論者だったアンリ・サンソン
処刑人の家系は人々に忌み嫌われ、転職もできません。
処刑人以外の家系の人物と結婚することも稀でした。
死刑制度がある限り存在する、必要悪としてのブラック労働なのです。
※ちなみに江戸時代の日本には、山田浅右衛門を名乗る家が処刑人一族として存在
そんな歴史の暗部である処刑人ですが、目立つ脇役として数奇な運命を辿った人物もおります。
彼は敬愛する国王や王妃を斬首したことで、歴史に名を残すことになったのです。
「ムッシュー・ド・パリ」のサンソン家4代目シャルル=アンリ・サンソン。
彼こそが人類史において2番目に多く処刑をこなしたとされ、心優しく慈愛に満ち、かつ強固な死刑執行・反対論者でした。
はからずも歴史に名を残してしまった彼は、その人となりが伝わる珍しい処刑人です。
母国フランスはもちろんのこと、日本発のフィクションでも坂本眞一氏の漫画『イノサン』、ゲーム『Fate/Grand Order』に登場。
荒木飛呂彦氏の人気漫画『ジョジョの奇妙な冒険』第7部「スティール・ボール・ラン」の主人公の一人、人間味あふれる処刑人ジャイロ・ツェペリのモデルも実は彼なのです。
今回は、そんなレジェンドの労働環境を取り上げたいと思います。
※なお公式記録で最も死刑を執行したのはドイツのヨハン・ライヒハートです(3,165人でアンリ・サンソンは約2,700人)。
漫画『Fate/Grand Order』や『聖牌戦争』著者のサテー氏より補足いただきました。この場を借りて御礼申し上げますm(_ _)m
人類史で2番目に多くの首を斬り落としたアンリ・サンソン 心優しき処刑人の苦悩 https://t.co/6eq88VXcj6
(「1番」はヨハン・ライヒハート(1893~1972)。サンソンの生んだギロチンが主流になった後のドイツの執行人だった。)— サテー@聖牌/ロブスターの天敵 (@syatey_12) December 8, 2017
ちょっとした貴族並の生活水準ではあった
以前、イギリスのブラック労働を記事にさせていただき、今回はそれに少し飛躍させてフランスです。
一応、前回の書式を踏まえ、処刑人のオシゴトを★で表現すると、以下のようなイメージぐらいでしょうか。
きつさ:★★★★★
汚さ:★☆☆☆☆
危険度:★★★☆☆
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人がゴミのようだ!った英国「救貧法」地獄のブラック労働どんな職?
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拷問や鞭打ちを行い、人の首を斬って、周囲から蔑まれる――この時点で、処刑人は職業として大変辛いことは想像できるかと思います。
技術面においても鍛錬が必要で、一撃で斬首できるよう心がけねばなりませんでした。
それだけ大変な仕事であれば、給与面は恵まれているのでは?
そう思うかもしれませんが、これが非常に微妙で、処刑人に給与は支給されない代わりに、商人から売り物を税金として現物徴収する権利が付与されていました。
また、処刑人は人を処刑することを通じて、人体の構造を熟知するようになります。
そのため彼らには医者という副業もありました。
処刑道具のメンテナンス費用、見習い処刑人の世話等で出費もかさみますが、それなりの生活水準を保つことはできていたのです。
サンソン一族は、ちょっとした貴族並の暮らしができるほどの生活レベルでした。
しかし、これはあくまでフランス革命前までのことでした。
ギロチン台がフランス革命時に考案された理由とは
3代目サンソンが担当していた1721年、処刑人の現物徴収権が廃止され、サンソン家の収入は大きく目減りします。
さらに1789年にフランス革命が勃発すると、処刑そのものの数が増えてコストが嵩み、家計は赤字に転落することになりました。
自由と平等が唱えられた革命では、処刑人一族もまた他の市民たちと平等であると認められるようになった……のですが、サンソンは素直に喜べません。
革命によって、彼が敬愛していた国王一家の権威が失墜していたからです。
崇高な理念から始まった革命は、やがて政治闘争と暴動へ発展。
血と死に慣れた処刑人すら目を背けたくなるような虐殺や暴力がフランス国内にはびこります。
革命当初は死刑制度に反対していたロベスピエールも、政治闘争の手段として暴力と殺人を必要悪として肯定するようになっておりました。
革命の理念である平等と人権の尊重は、処刑法をも変えました。
かつてフランスでは、貴族が剣による斬首、平民が絞首刑が基本。
罪の重さに応じて、拷問を繰り返したあと馬で手足を引き裂く「八つ裂き」のような残酷な手段がとられることもあり――これを「斬首のみ」に統一したのです。
更に人権を尊重する観点から、失敗して苦痛が長引く可能性がある剣による斬首をやめて、ギロチンが採用されました。
フランス革命から約3年半後の1793年1月21日、このギロチンについに国王ルイ16世が登ることになりました。
サンソンは一睡もできないまま、処刑の日を迎えます。
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