マーシャの日記(清水 陽子 (翻訳) 新日本出版社)/amazonより

欧州

リトアニアのアンネ・フランクと呼ばれる『マーシャの日記』があまりにも壮絶だ

ナチスドイツの強制収容所に収容され、若すぎる命を奪われたアンネ・フランク。

彼女とは同年代で、似たような環境の中、同じく日記を続けた別の少女がいました。

マーシャ・ロリニカイテ――。

「リトアニアのアンネ・フランク」とも称されるマーシャは、ゲットーから強制収容所送りという境遇もアンネと似ていながら、二人には決定的な違いがありました。それは……。

マーシャは生きて強制収容所から解放され、実に2016年4月7日まで生きたのです。

もし、生き残ったら自分で話そう。

そうでなかったら、これを読んでもらおう。

だが、とにかく知らせなければ!

絶対に!

そう強く願ったマーシャの日記は、日本でも飜訳出版されています。

それがTOP画像の『マーシャの日記―ホロコーストを生きのびた少女(新日本出版社)』(→amazon)です。

 

この経験を記録する、そう心に決めた少女

1927年、バルト海沿岸のリトアニア。

美しい森と湖が広がるこの国で、マーシャ・ロリニカイテは誕生しました。

弁護士の父のもとに生まれたマーシャは、幼い頃から詩を書き、文才の片鱗を見せていました。

学校ではリトアニア語、家庭内ではイディッシュ語という生活だったとのことです。

マーシャは日記を書くことになったとき、イディッシュ語で書くことにしました。

リトアニア語よりもイディッシュ語の方が読まれやすい、そう考えたのです。

自らの体験したことを、後世に残したい。彼女はそう強く願っていました。

収容所ではなんとか筆記具を探し出して記し、それすらできなかったら見たものを目に焼き付ける。

そうして苦難の歴史の証言者になったのです。

 

ある夏の朝、響き渡るサイレン

1941年6月22日。

リトアニアの街、ヴィリニュス。

さんさんと太陽が降り注ぐ初夏の一日。

マーシャたちの運命は暗転しました。サイレンが鳴り響き、爆撃が開始されたのです。

ヴィリニュスに作られた城壁「夜明けの門」

ソ連軍は撤退し、街はナチスドイツに占領されました。

マーシャの一家は荷物をまとめ、逃げようとします。

が、父親が切符を買いに出たまま戻らず、母と子供達だけが取り残されてしまいました。

実はこのとき、父ノギルシャ・ロリニカスは撤退するリトアニア軍に合流しており、そのまま前線で兵士として戦うことになっていたのです。マーシャたちがそのことを知るすべはありませんでした。

マーシャの一家は父不在のまま避難を試みますが、幼い弟たちはすぐに歩き疲れてしまいます。

やむなく街に引き返す一家。

それが間違いの元でした。

街は既にナチスの手中にありました。

ユダヤ人は財産を没収され、それとわかるようマーキング。さらに共産党員だとの疑いをかけられた人々をさらい、銃殺、穴に埋めるという有様です。

聡明なマーシャは、国際的に禁止されているはずの捕虜殺害が行われていることに愕然とし、怒りを感じさせました。

それと同時に、父がこの街にいなくてよかったかもしれない、いたら射殺されたかもしれない、という思いを抱くのでした。

そしてマーシャは、学校すら通えなくなります。

ユダヤ人とコモソール(青年共産同盟員)は通学禁止とされたのです。

 

ゲットーに入れられて

突如、街の郊外に、こんな看板が立てられました。

<<注意! ユダヤ人街区。伝染の危険あり。部外者の立ち入り禁止>>

そしてマーシャはじめユダヤ人は、追い立てられるようにして、そこへ送られます。

と、同時に食料は配給券制度。

育ち盛りの子供には到底足りない量だけが支給されるようになりました。

ヴィリニュスのゲットー跡/Wikipediaより引用

マーシャの母と姉ミーラ、それにマーシャは必死で働き続けました。

働き続けられなくなれば、命をも落としかねない。そう、わかっていたからです。

働けない老人たちは、施設に入れると騙され、警官達によって郊外に連れ出され、射殺されました……。

戦況は一進一退。

ソ連軍がナチスドイツ軍を打ち破っているという情報も届きますが、まだまだ先は長い道のりでした。

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