ただし、それはルールがきちんと決まっていて、公正な審判がいる状況でなければ成り立ちません。
1832年5月31日、フランス人数学者のエヴァリスト・ガロアが亡くなりました。
原因は、決闘で負った傷です。
学者さんが決闘?
血糖値の間違いじゃないの?
なんてツッコミが来そうですが、理由としては彼自身の性格が半分、この時代のフランスというお国柄が半分というところでしょうか。
ともかく彼の生涯を見ていきましょう。
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子供の頃は、性格の明るい両親や姉弟に恵まれ
彼の両親は、共に教職や学者を多く持つ家系でありました。
アタマが良いからと言っていわゆる頭でっかちでもなく、姉や弟を含めて明るい家庭だったそうです。
おそらくこの時代が彼の一番幸せな時期だったでしょう。
12歳でパリの名門寄宿校に入った後は、何だかんだと波のある人生を送ることになります(半分は自業自得ですが)。
当時、その学校は校長と生徒の間でたびたび衝突が起きており、ガロアも単なる優等生ではなく、いろいろ思うところがあったのでしょう。
二年生のときにはそれに影響を受けすぎたからか。
体調が思わしくなかったからか。
留年してしまいます。
しかし元々頭がいいこともあって退屈し、暇つぶし程度に数学の授業を選択したことで、ガロアの人生は大きく変わっていきます。
当時フランスでは数学という学問が重視されておらず、必要な人だけが選ぶものでした。
二年分の教材を二日で読み終えてしまった!?
ガロアは、そこでルジャンドルというフランス人数学者の本と出会い、すっかり数学の虜になってしまいます。
なんだかマンガのような学者さんですが、実際、そういうハマり性ゆえに学者になれるのでしょう。
数学に限らず、歴史やほかの学問、趣味だって、似たような感じの人が大きな事跡を残しますしね。
それにしてもガロアの熱中ぶりはすさまじく、二年分の教材を二日で読み終わってしまったといわれています。いっそ怖い。
数学の先生や学校がドン引きするほどの執着ぶりだったガロアは、学校の成績上では優秀ではなかったとか。
相対評価のデメリットがモロに出てますね。
とはいえ数学以外の科目については相変わらずやる気がなかったそうなので、目をつけられるのも無理はない話です。
一方で、わずかながらガロアの才能を認めてくれる先生もおり、そのおかげでガロアは数学への情熱を持ち続けることができました。
17歳の若さでフランス学士院(フランスの国立総合学会みたいなもの)へ論文を提出するほどだったといいます。
残念ながら、論文を預けた相手が不誠実だったため、この論文はなかったことにされた上、物理的にも消えてしまいました。何やってんだ!
教会に濡れ衣を着せられた父が自殺
運の悪いことに、この論文紛失事件の後、ガロアは、敬愛する父親が自ら命を絶つといういたましい事件が起きてしまいます。
この頃ガロアの父は地元の町長をやっていたのですが、教会から濡れ衣を着せられてしまい、気に病んでいたのだそうです。
そのネタがR18的なものだった上、家族の誹謗中傷まで含んでいたそうですから、元々仲が良かった一家が傷つくにはあまりあるものだったのでしょう。
ほんと、宗教が政治に口出すとロクなことがありません。
とにかく、この知らせがガロアには相当なショックで、上級学校への受験にも失敗してしまいました。
口述試験の担当者がイヤミすぎたため、ガロアがキレて黒板消しを投げつけたからだとも、いわれています。
いつの時代もどこの国でも、くだらない理由でイチャモンつけてくる人っているもんですね。
残念ながらその学校の規定では「受験は二回まで」と定められていたため、2度失敗したガロアは入学することができませんでした。
そこでガロアは気持ちを切り替え、ややレベルは低いものの、大学の教員や研究者を育成するための学校を目指します。
現在のフランス高等師範学校ですね。
こういうと何だか日本的な表現に思えますが、邦訳がこうなってるから仕方ない。
学費の支給を受ける代わりに10年間は教師をします
高等師範学校には、めでたく一発で合格。
数学の実力は、入学から2ヶ月程度で卒業相当と認められるほどでした。
ただし、物理では「教師になるには物を知らなさすぎる」と言われているため、ガロアの偏りぶりが伺えます。これだから天才ってヤツは……。
むろん師範学校に入った以上は、きちんと先生になる意志も固めており、「学費の支給を受ける代わりに、卒業したら10年間ちゃんと先生をやります」(意訳)という契約書を学校へ提出しておりました。
これがタダ働きすることになるのかどうかが気になるところですが、原文が本人の手書きしか見当たらなかったので訳せませんでした。フランス語わからん(´・ω・`)
そのまま順調にいけば、天才的な数学教師として名を残すことになっていたのでしょう。
しかし、現実にはここから約2年ほどで彼は世を去ってしまっています。
何故かというと、この後、彼は学校関係以外でのトラブルに巻き込まれていくのです。
「民衆のために僕が死んでもいい」
当時のフランスは、王政復古により復活したブルボン家と市民の間でまたしてもドンパチが起きており、不穏な情勢が続いていました。
その空気は各教育機関にも入ってきており、ガロアのような若者たちも無関係ではありません。
師範学校の校長はそれを許さず、ガロアたち生徒を校舎に閉じこめて日和見を決め込んだこともありました。
これに対し、ガロアは校長への反発を隠さず、学校新聞で堂々と非難します。
校長も校長でこれにブチギレ。
ガロアを退学処分にしてしまいました。大人げないなあ。
チカラづくの解決は、相手が正論であることを認めるも同然だと思うのですが、気づかなかったんですかね。
とはいえガロアの数学の才を惜しんだ人がおり、別の場所で論文の発表や数学の講義をする機会を得ることができました。
本人はその程度では満足できず、私生活では相当荒れていたようで、
「民衆のために誰かが死ななくてはならないというなら、僕がなってもいい」
とまで言っていたとか。
立った……フラグが立ってしまいました……。
日本でいう言霊にあたるものがフランスにあるのかどうかわかりませんが、ガロアの言はやがて近い形で現実となります。
ときの国王であるルイ・フィリップをぶっコロスぞ!といわんばかりの言動をしたため、当局に目を付けられてしまったのです。
一度は弁護士のおかげで無罪になりながら、その後も度々反抗的な言動を繰り返したため、結局お縄に。
刑務所内でもその態度は変わらなかったらしく、他の囚人からいびられることも多々あったそうです。
姉や弟が何度か面会にいったときも、ひどく不健康で老け込んでいたように見えたといいますから、さしものガロアも堪えていたのでしょう。
たまには気の合う知人が来てくれていたそうなので、気分的には多少マシだったかもしれません。
パリ近郊の沼地で決闘! 敗北して放置される
その後、病気になったため療養所へ移り、なぜかそこでアバンチュールな出来事があったらしく、失恋の苦しみを友人に書き送っています。
当時のパリではコレラが流行っていたそうなんですが、元気な病人ですね。
さらに、手紙の四日後にも別の女性と何かあったらしく、彼女を巡って二人の男に決闘を申し込まれています。
5月30日の朝、パリ近郊の沼地でその決闘は起こられました。
ガロアはものの見事に敗北。
しかもその場で放置されてしまったそうです。
通りすがりの善良な農夫により病院へ運んでは貰えましたが、夕方には腹膜炎を起こし、翌31日に息を引き取ります。
腹膜炎とは腹部の臓器全体を覆っている膜に炎症が起きるもので、このあたりの内臓が炎症を起こした場合に起こりえます。
ということは、おそらく腹部に相当深く大きな傷ができていたのでしょう。その状態で沼地に傷をさらしていたら、病気にならない方がおかしいというものです。
破傷風や敗血症などで、長期間苦しんでから死ぬよりはマシだったかもしれませんが……。
弱冠20歳の天才の死は多くの人に惜しまれ、2~3,000人もの人が葬儀に訪れたといいます。
ただし、その後の混乱でガロアの墓は所在がわからなくなってしまい、没後150年経った1982年、ようやく新しい墓碑を設置されました。
ヨーロッパってこういう話多いですよね。
ついでですから、ガロアの死の遠因となった「決闘」についてももう少しお話ししましょう。
イングランドでは19世紀まで普通に行われていただと!?
現実の決闘はかなり凄まじいものです。
申し込み方や決闘中の作法は決まっている一方、当事者のみで行われた決闘も多く、ガロアの場合もそうだったと思われます。
でなければ何時間も放置されなかったでしょうね。
中には当事者だけでなく、付添い人や審判までも剣を抜いてバトルロイヤル状態に陥ることもままあったとか((((;゚Д゚))))
15世紀くらいまでのヨーロッパでは、決闘で裁判のケリをつけるという物騒なやり方も合法でした。
さすがに死傷者が出過ぎるというのでその後廃れていきましたが、イングランドでは19世紀までおkだったそうです。紳士の国とは、一体……。
他国でも私的な果たし合いとしての決闘は、ずっと続いていたそうです。
「決闘を申し込まれて受けないのは不名誉」と考えられていたこともあり、「決闘やめんかい」という法律が出ても全く守られなかったのです。
「ペンは剣よりも強し」とは何だったのか(´・ω・`) 微妙に意味違いますけど。
さすがに現代では裁判で紛争を片付けるのが筋ですが、ごく一部、決闘を合法としている国もあります。
もちろん日本ではNGです。
良い子も悪い大人も西部劇とかの真似をしないでくださいね。
長月 七紀・記
【参考】
エヴァリスト・ガロア/Wikipedia
決闘/Wikipedia