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徳恵翁主/wikipediaより引用

アジア・中東

徳恵翁主(とくけいおうしゅ) 悲劇の生涯~李氏朝鮮のラスト・プリンセスとは?

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かつて「とくえひめ」と呼ばれた女性がいました。

童謡の作詞をしたため「童謡のお姫様」とも呼ばれ、優しげて儚い、美しい王女。
王女という高貴な生まれであれば苦労とは無縁?
と思われますが、現実は甘くありません。

君主制と民主主義の転換期は、お姫様たちにも過酷な運命として降りかかります。

例えば、ハプスブルク家に嫁ぎ、メキシコ皇后にまでのぼりつめたシャルロッテは、後半生を狂気の中で過ごしております。

メキシコ皇后シャルロッテ(カルロータ)のド狂気 毒殺に怯えながら60年間も生き永らえる

「とくえひめ」こと李徳恵も翁主(おうしゅ・朝鮮王朝の姫君)として生まれながら、後半生を正気と狂気の中、行き来しながら生きる――そんな苦難の人生を歩んだ女性です。

徳恵翁主は一体どんな人生を送ったのでしょうか。

 

日韓併合後に高宗の子として誕生

日本による韓国併合(1910年、明治43年)の2年後。
明治から大正へ変わる1912年に徳恵は誕生しました。

王族の住んでいた昌徳宮/photo by Jordan Wooley wikipediaより引用

父・高宗はすでにこのころ還暦近くであり、娘というより孫といったほうが近いような、最晩年の娘です。

母は宮人であった梁氏。
翁主の母となったことで「福寧堂」という堂号を賜りました。

父の高宗は、福寧堂まで来て愛娘の顔を見ていました。

あまりに可愛らしいので、生後わずか50日ほどで、自分の寝殿に移して育てることにするほど。
その溺愛を受けて、徳恵は育ちます。

徳寿宮での徳恵翁主(真ん中が高宗で、一番→が徳恵翁主)/wikipediaより引用

このころ、李氏王朝は日本の宮内庁の支配下に置かれ、主体性は喪失していました。
そんな暗い世相の中で生まれた子だからこそ、徳恵はまるで希望の光のように思えたのかもしれません。

高宗は、幼い我が子を膝に乗せて可愛がる姿をたびたび目撃されておりました。
徳恵が5歳のときには、娘のために宮廷内に幼稚園を作るほどです。
スクスクと育つ徳恵の姿を見ては、目を細めていたんですね。

しかし高宗には悩みがありました。

最晩年の子が成人を迎えるまで、自分が生きていられるとは到底思えません。生きている間に、愛娘にしておきたいことがありました。

・ひとつめは、身分が低い母を持つ徳恵を、翁主(姫)として王族の一員とすること
・ふたつめは、日本人以外を婚約者とすること

当時、朝鮮の王族は、留学や結婚という名目で、来日させられたまま祖国に戻れないことがありました。
教育上は悪くないにせよ、祖国を離れて我が子が暮らすことに親たちは胸を痛め、人質に取られてしまったような思いを募らせていたのです。

最愛の娘・徳恵だけは手元に置き、王族の一員として見守りたい――それが高宗の願いでした。

 

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父の死、日本留学へ

そんな優しい父・高宗は、1919年(大正8年)、徳恵が満6歳の歳に崩御。

その死を契機に独立の機運が高まり「三・一運動」が起こりました。
幼い徳恵は、動乱の中、どんな気持ちでいたのでしょうか。

3.1独立運動レリーフ/photo by Cinnamon wikipediaより引用

母・梁氏と徳恵は、父の死を悼む静かな日々を送ります。

1921年(大正11年)、徳恵は京城(現ソウル)の「日の出小学校」に編入しました。

この学校は日本人子息か、朝鮮人でも上流階級のみが通学できるエリート教育機関。
徳恵は日本人の少女同様、着物に袴姿で通学しました。

なお「徳恵」という名は、この入学時に付けられたものです。

そして1925年(大正14年)、徳恵は日本に向けて旅立ちます。
留学です。
東京に向かう徳恵は、藤色の振り袖を身につけていました。

祖国を離れること。
朝鮮の王族の一員ながら、和服を着ること。
様々な思いが、彼女の胸をよぎったことでしょう。

1925年、振り袖姿の徳恵/wikipediaより引用

 

ホームシックと母の死

東京駅に着いた徳恵。
彼女を迎えたのは、兄・李垠の妻・李方子でした。

李方子/wikipediaより引用

方子は、美しく成長した義妹を見て驚きました。

その目に潜んでいたのは絶望。
以前出会ったときは、キラキラとした瞳の少女だったのに……一体なにがあったのだろうか。方子は内気な徳恵を見て心配になりました。

徳恵は女子学習院に入学します。
クラスメートたちは、朝鮮から来たお姫様はどんな方かしら、とワクワクしながら待ち受けてました。教師も仲良くするように伝えております。

彼女らは徳恵に話しかけ、遊びに誘いました。
が、徳恵は、暗い顔をして口数も少なめ。重度のホームシックにかかり、家でも学校でも、暗い顔になってしまいます。
思春期の徳恵は、口を閉ざし、やがて心も閉ざすようになりました。

1925年撮影・洋服姿の徳恵翁主/wikipediaより引用

徳恵が祖国に帰ることができるのは、兄・純宗の危篤、死、一周忌、二周忌の時のみでした。

そして1929年(昭和4年)。
母・梁氏が永眠。
17歳の徳恵はうちのめされました。
しかも、翁主となった徳恵が弔うには、母の身分が低すぎるとして、十分な服喪すら許されなかったのです。

葬儀の二日後には足早に日本に戻ることとなった徳恵。17歳の少女にとって、あまりにつらい試練でした。
この悲しみが、さらなる不幸の引き金を引くことになります。

1929年、母の葬儀で/wikipediaより引用

 

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深い憂うつのまま結婚 そして戦争へ

母の葬儀から戻ったあと、徳恵の精神は変調をきたします。
話しかけられても答えることがなくなり、学校にも行きたくないと言い出したのです。

現在ならばうつ病と登校拒否としてしかるべき処置を受けるはずです。
年齢的にも傷つきやすい頃です。

しかし、このときくだされた診断は「早発性痴呆症(統合失調症)」というもの。彼女にとって極めて不幸なことでした。

1931年(昭和6年)。
徳恵は学業を修了しました。といっても、ほとんど登校できない状態が続いていましたが。

そのあと待ち受けていたのは、宗武志との結婚です。

3月に卒業すると、4月には納采の儀(皇族にとっての結納/当時朝鮮王族は皇室に準じた扱いでした)があり、5月に挙式。
あわただしい日程で、結婚へのスケジュールが埋まっていたのです。
こうした儀式は、朝鮮式ではなく和式で行われました。

相手の宗武志は、旧津島藩主・宗家の当主で伯爵にあたります。
朝鮮通信使時代以来の縁とはいえ、李家からすれば格下という気持ちは否めませんでした。

いざ新婚生活が始まってしまえば、徳恵の心も華やぐという意図もあったのでしょうか。
かなり急ぎ足の結婚です。

1931年撮影の夫妻(夫・宗武志と徳恵翁主)/wikipediaより引用

結婚の翌年、夫妻の間に長女・正恵が誕生。
武志は愛娘の誕生を喜びました。
幼い正恵のもとに、朝鮮からも可愛らしいチマチョゴリやおもちゃが届きます。

娘を育てるうちに、不安定な徳恵の気持ちもおさまるのではないか。
そんな期待もあったかもしれません。

しかし、事態は期待とは正反対の方向に進むのでした。

従来の不安定さに、マタニティブルーも重なったのか。徳恵は、さらに深刻なうつ状態に陥ってしまうのです。

戦時色が強まる中、徳恵は宗家の奥深くで療養する日々を送りました。
宗家のような華族たちも贅沢を禁じられ、空襲の中で怯える生活。
夫・武志も出征してゆきます。

王族であろうと、戦火は容赦なく襲いかかります。
1945年(昭和20年)の広島では、李氏王家の一員である李グウが被曝死しています。

李グウの訃報を伝える新聞記事/wikipediaより引用

1945年(昭和20年)8月15日。
日本にとっては敗戦の日であり、朝鮮にとっては解放の日。

それは精神を闇に閉ざされた徳恵にとって、関係の無いことでした。

 

入院と離婚

終戦時、徳恵は33才になっておりました。

夫の武志は37才で、娘の正恵は13才。
1947年(昭和22年)には、華族が身分を失い、宗家も伯爵家ではなくなります。
李王家の人々も、皇族に準じる地位を追われました。

徳恵の祖国は、南北に分裂し、激しい戦いに巻き込まれました。
「朝鮮戦争」です。

このころ既に、徳恵は松沢病院に入院させられていました。
1950年(昭和25年)には、韓国人記者の金乙漢が、松沢病院にいる徳恵と面会しております。

やつれた様子で、うつろな目をした翁主。
彼女の姿を見た金乙漢の目から、涙がこぼれおちました。

「高宗が愛した翁主が、このような痛ましいお姿になられて……」

金乙漢はとらわれの翁主を救うべく、ジャーナリストとしてペンを執りました。
彼の義憤に満ちた記事を読んだ人々は、ただちに解放し帰国させるべきだという思いを強くしたのです。

そうなると、宗武志とは離婚せねばなりません。

徳恵本人が知らぬところで離婚協議が進められ、1955年(昭和30年)、離婚が成立しました。

妻を精神病院に入れていた冷酷な夫—武志は、そんな非難を浴びました。
しかし、彼としても経済的困窮という、やむにやまれぬ事情がありました。

宗武志は詩集を刊行しています。
愛のない政略結婚と思われがちな二人ですが、武志は妻を愛していたようで、彼女との別離を悲しむ作品が多く残されています。

 

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近くて遠い祖国

離婚が成立した徳恵は、「李徳恵」ではなく、母方の姓をとって「梁徳恵」となりました。

李氏朝鮮の王女(公主または翁主)が離婚するのは、彼女が初めて。
そのため、一族の恥という意識があったのかもしれません。

離婚したら簡単に帰国できるかというと、そうではありませんでした。
時の権力者である李承晩は、李氏王族に対して冷淡な態度を取っていたのです。李承晩自身が、先祖をたどれば李氏と同族であったとされます。

李承晩は、王族が担ぎ上げられて権力を握る可能性を考えていたと思われます。
そのため徳恵の兄である李垠も、帰国を妨害されました。

結局、王族の彼らが帰国できたのは、李承晩政権が倒されてからのことです。

1962年(昭和37年)、金乙漢らが尽力し、徳恵はついに帰国。
周囲は感動していましたが、彼女自身は自分がどこに向かうのかすら、わからない様子でした。
38年ぶりに故郷の土を踏んでも、何の感慨も浮かばず、足下はふらついています。

かつて彼女に仕えた乳母や尚官(女官)らが空港で出迎えていました。
彼女は尚官たちが捧げる花束を受け取りましたが、やっぱり虚ろな目を浮かべています。

「おいたわしや、翁主……」
人々はそんな徳恵の姿に、悲しみを覚えるのでした。

 

まるで忘れ去られたかのように

徳恵の行き先は、王宮でも家でもなく、療養先のソウル大学病院でした。
そこで7年間も療養。症状は改善しません。

徳恵にとって終の棲家は、昌徳宮の一部である寿康斎でした。

兄・李垠の死を告げられても何も理解できない徳恵の様子は、痛ましいものです。
最晩年の徳恵は、テレビを見て、時折アリランを口ずさんでいました。
その様子は、まるで幼子。

彼女は日本で娘の正恵が行方不明になったのち死亡したことも、夫の宗武志の再婚も死も知らず、閉じた心の中で生きていました。

そして1989年(昭和62年)。
看護人二人に見守られ、徳恵翁主はひっそりと永眠。

忘れられたような翁主の死を、人々は悼みました。
その亡骸は、父・高宗の側に葬られます。

若くして祖国を離れた寂しさから、口を閉ざし、そのうち心まで閉ざしてしまった徳恵翁主。
かつて日本においても「童謡の姫さま・徳恵姫(とくえひめ)」として親しまれていたにも関わらず、まるで忘れられたかのようです。

高貴な王族に生まれたため、翻弄されてしまった人生は、まさに悲劇のプリンセスといえるのではないでしょうか。

文:小檜山青




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※映画『ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女』予告編。ただし、本作は脚色がかなりあります

【参考文献】
徳恵姫―李氏朝鮮最後の王女』本馬恭子

 

織田信長 武田信玄 真田幸村(信繁) 伊達政宗 徳川家康 豊臣秀吉 毛利元就 




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