天一坊事件

徳川吉宗/wikipediaより引用

江戸時代

吉宗の息子を自称して処刑された天一坊事件|母の言葉を超曲解して迎えた悲劇

2025/04/20

享保十四年(1729年)4月21日、天一坊改行という人物が処刑されました。

【天一坊事件】というのを起こしたのですが、受験には出ませんし、ご存じない方も多いかもしれません。

将軍・徳川吉宗のご落胤を名乗り「私は近々大名に取り立てられるだろう!」なんて言い始めたため、自分も召抱えてもらおう!という浪人がわんさか集まり、騒ぎになったのです。

後世の我々から見ると滑稽にしか見えない出来事ですが、いざ目の前で堂々と言い切られると、信じてしまうのが人情というものかもしれません。

一体どんな流れでそうなったのか? 事件を振り返ってみましょう。

 


天一坊「わたしは吉宗の息子であるぞ!」

高貴な人物が、こっそり別の女性に産ませた「ご落胤」。

将軍様の元でデキる理由(というか経緯)は大きく分けて二つあります。

一つは二代将軍・徳川秀忠と保科正之のように、大奥の中や城内の身分の低い女性に手をつけてしまった結果、生まれてきたケース。

保科正之/wikipediaより引用

もう一つは、地元の女性と行きずりの関係を持ってしまった場合です。

どっちもベタですね。

特に吉宗の場合、若い頃から身体頑健で昼も夜も大変お元気だったそうなので、地元で手をつけた女性は数知れず。

この天一坊の件について報告があった際も、

「あぁ、身に覚えが……あると言えばあるんですよねぇ(´・ω・`)」

という反応だったそうです。あーあー。

吉宗というより世界中いつでもどこでも同じですが、後で困るような相手とは関係を持つなという話ですね。

 


「“吉”の字を大切にしなさい」

当の本人がこんな調子ですから、いくら眉唾でも天一坊を即座にしょっ引くわけにはいきません。

各所の担当者が慎重に慎重に調べ、本人にも聴取をした結果、ある意味、当たり前の事実が判明します。

ご落胤説は彼の思い込みでした。

面白いのは、思い込むまでの経緯で、こんな感じです。

1.吉宗がまだ部屋住み(穀潰し同然)だった頃、天一坊の母親が和歌山城に奉公していた

2.何者かに手をつけられ見事命中

3.母親は実家に帰されて天一坊が生まれた

4.母親と共に江戸に来て、母は町人と結婚

5.母死去の際「”吉”の字を大切にしなさい」と言い残される

6.天一坊が「吉といえば吉宗様。そして私は紀州の生まれ。ということは、吉宗様が私の父に違いない!いずれ大名になれるはずだ!」と勘違いする

7.伯父から「いずれ幕府から連絡が来るだろう」と言われていたため勘違いが加速

8.浪人たちが噂を聞きつけてぞろぞろやってくる

9.いろいろウソをついて引くに引けなくなる

10.幕府に見つかりました\(^o^)/

つまり「そもそも母親が妊娠したきっかけが本当に吉宗なのかどうか?」という点から怪しかった。

しかも吉宗が「吉宗」と名乗ったのは宝永二年(1705年)で、それまでは頼方(よりかた)という名前でした。

天一坊は元禄十二年(1699年)生まれ。

本名にも”吉”はついていませんし、時期的にも合わない。

つまり「”吉”の字を大切にしろ」というのも、将軍吉宗では辻褄が合わないのです。

では、真相が発覚して、天一坊はどうなったのか?

 

幕府が「アイツは偽者!」という結論

どちらかというと「母親が手をつけられたのは、吉の字がつく和歌山城内の別の人物だった」というほうがありえそうな話です。

和歌山城の天守閣と御橋廊

和歌山城の御橋廊下

天一坊が生まれた時点での将軍は徳川綱吉なので、武家では”吉”を避ける傾向があった(避諱)にせよ、どこまで徹底していたかは疑問でしょう。

こうした諸々のツッコミどころが浮上してきたため、幕府は最終的に「アイツは偽者!」という結論を出しました。

そして「ご落胤を名乗り、浪人を集めて世間を騒がせたのはけしからん」ということで打首獄門になります。

ちなみに、打首は首を刎ねる刑、獄門は首をさらす刑です。

順番として打首→獄門になるため、もはや慣用句扱いになってますが。

江戸時代の刑罰は複雑な上、基本的にグロいので詳細は省きますけども、類似の犯罪が頻発しないように、犯人や遺体を晒すというのはよくあることでした。

何はともあれ、天一坊の処刑によりこの騒動は一段落し、その後みだりに「将軍のご落胤」を名乗る人物は出てこなかったようです。

まぁ、命がかかってしまいますからね。

DNA鑑定のない時代、本物のご落胤でも名乗れないかもしれません。


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【参考】
日本大百科全書
朝日新聞社『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon
天一坊事件/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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