アジア・中東

イブン・バットゥータの長旅好きが凄まじい 生涯65年のうち30年も!?

ベトナム~インドネシア、マレーシアを経由して

ちょうどよく、モルディブは仏教からイスラム教に変わったばかりで、バットゥータの見識が役に立ちました。しかも王族から奥さんまでもらっています。気に入られすぎ。
この頃はまだ中国への使者を務める気があったようで、次にスリランカへ。

しかしスリランカから大陸に向かう船でまた海賊に襲われました。運がいいのか悪いのか、つくづくわからん御人やでぇ~。

そのため何度目かの迷走をした後、バングラデシュに渡りました。ここでは高名なイスラム教の指導者に会うことができ、数年ぶりに良い経験をしています。

その後、ベトナムを通り、イスラム圏であるインドネシアに行ってからマレーシアへ引き返し、中国・福建省入り。
インドを出てから10 1年以上経っていましたので、スルタンもそろそろ諦めてそうですね。

この頃の中国にもムスリムが一定数おり、バットゥータはまず彼らと交流を図ったようです。
中でも「この地のムスリムは、泉州の町を”ザイツン(アラビア語のオリーブ)”と呼んでいる。オリーブの木はどこにもないのに」と印象を書き残しています。
これは例によって私見ですが、おそらく中国人の肌の色を「オリーブ色」と称していたのではないでしょうか。幕末~明治時代に日本にやってきた西洋人の中に、「日本人はオリーブ色の肌をしている」と言っていた人がいますので、昔は「黄色人種の顔色はオリーブの色」と感じるのは珍しくなかったのかもしれません。

他、中国の食文化や絹織物・磁器などの工芸品、紙幣の便利さ、自然などについて詳しく記しています。カルチャーショックが大きかったんでしょうね。
インド使節を名乗って、元の宮廷に行って歓迎されたこともありました。

 

たった数日で次の旅に出て……もうお腹いっぱい

中国をひと通り見て、やっとバットゥータは故郷へ帰ることを決めます。

帰り道はほぼまっすぐにモロッコへ向かっていますが、その途中で、15年前に父が亡くなっていたのを知ったことや、ペストの流行地域を通ったことで、「死」を強く意識する道のりとなりました。
また、タンジェに帰り着いたとき、母がほんの数ヶ月前に亡くなったことを知りました。

せっかく帰郷したにもかかわらず、バットゥータはたった数日で次の旅にでているのですが、もしかすると両親が他界してしまったからだったのかもしれません。
次は今までとは逆の方向、イベリア半島へ向かいました。まだレコンキスタが終わっていない時期ですから、イスラム圏ですね。

バットゥータが旅立った頃は結構きな臭い感じになっていたのですが、カスティーリャ王国(スペインの元になった国の一つ)の王様が病死したために、無事に渡ることができました。

そして一度モロッコに戻ってから、今度はマリへ。虫の多さやサハラ砂漠横断などで辟易することも多く、最初の旅と比べるとあまり実りは多くなかったようです。
1354年に自国のスルタンに帰国を命じられて、自宅へ戻りました。

それからは、イベリア半島・グラナダで出会った学者のイブン・ジュザイイと共に、旅行記の執筆に専念します。

といっても、バットゥータは逐一記録をしていたわけではなかったので、彼の記憶を頼りに書かれたものでした。ですので、「このルートはありえない」「中国には行っていないんじゃないか」と懐疑的に見る学者先生もいらっしゃるようです。

とはいえ、風聞で書いたにしても「この時代にこうした風説があった」という資料にはなりますから、そう目くじらを立てるものでもないでしょう。

噂というのは、事実かどうかよりも当時の一般人の価値観が現れていることを重視すべきでしょうし。

 

数百年の眠りを経て、旅行記はドイツ語に翻訳

バットゥータの旅行記は、しばらくの間埋もれていました。

人々に読まれるようになったのは、17世紀のオスマン帝国でのことです。それまでは、「イスラムの教えに反する部分がある」として、あえて広められませんでした。

さらに広まったのは19世紀にドイツの探検家が原稿の要約版を見つけてからです。

ドイツ後に翻訳・出版され、東洋学の世界で注目されるようになりました。
1853年に出版された校訂版は「パリ本」と呼ばれていて、現在バットゥータの旅行記の底本とされています。日本語版もパリ本を訳したものです。

日本語版は8巻もあります。

なかなか読破するのは難しいところですが……中世のイスラム世界やムスリムの価値観をうかがい知るにはいいかもしれませんね。

長月 七紀・記

【参考】
イブン・バットゥータ/wikipedia
旅行記_(イブン・バットゥータ)/wikipedia

 



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