ムスタファ・ケマル・アタテュルク/wikipediaより引用

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親日トルコの歴史(オスマン帝国)を学ぼう!建国の父・アタテュルクに注目だ


アタテュルクたつ!

ムスタファ・ケマル・アタテュルクは現在のギリシャ・テッサロニキ(当時はオスマン帝国領)で生まれました。

彼はケマル・パシャともいわれます。
ケマルは「完全な」という形容詞で、パシャはオスマン帝国(トルコ)のエライ人に与えられる称号。

つまり、個人のお名前としてはムスタファ・アタテュルクということになります。トルコ関連でやたらと「パシャ」がつく人が多いのは称号だからなんですね。

さらにこの”アタテュルク”も政界に入ってから贈られたものなのですが、こまけぇこたぁいってことで。

当初は軍人としての道を進み、オスマン帝国が参加した数々の戦争に赴きます。

第一次世界大戦で、オスマン帝国は同盟側(ドイツ・オーストリア・ブルガリア)につきました。

アタテュルクも連合国(フランス・イギリス・ロシア等)相手に戦い、特に英仏軍の侵攻を食い止めたガリポリの戦いで「英雄」と呼ばれるようになります。

彼は軍事的な才能だけでなく学問のほうも達者だったためか、第一次世界大戦中の1917年には皇太子ワフデッティン(後のメフメト6世)がドイツを訪問する際の随行員にも選ばれ、親交を深めていました。

メフメト6世もアタテュルクのことは信頼していたようで、「皇帝の副官」を意味する称号を贈られたそうです。

前列左がアタテュルク・第5軍での参謀研修時代(1907年撮影)/wikipediaより引用

しかし、いつの時代も個人の感情を国家や政治より優先させることはできません。
まして「瀕死の病人」にそんな温情を持つ余裕はありませんでした。

第一次世界大戦終結時の敗戦国側になってしまったことでさらに弱体化してしまったオスマン帝国は、清のようにじりじりと国土を削り取られていきます。

抵抗する人々もいましたが、バラバラの状態では国を取り戻すことは不可能。
放置しておけば国家どころか民族存亡の危機へ陥っていたでしょう。

そうならなかったのは、このギリギリのタイミングでトルコ革命が起こり、帝政や数々の制度が廃止されたからです。
その中心にいたのがアタテュルクでした。

 


帝国の英雄から一転、革命のリーダーに

当初アタテュルクは抵抗側を取り締まるためオスマン帝国から派遣されました。

が、彼は腹の中で既に皇帝を見限っていたため、抵抗派をまとめて一丸となることを訴えます。
「英雄」が味方になってくれるのですから、人々はさぞ心強く感じたことでしょう。

この間に首都イスタンブールまで連合軍に占領されてしまい、アタテュルクらはアンカラで議会を開き、抵抗運動政権を作るのです。

そしてアナトリア半島の東部・南部・西部各方面で少しずつ開放戦をスタート。
すべての戦闘に勝利したわけではありませんでしたが、最終的にはほぼ全ての国土を取り戻すことができました。

この間皇帝を始めとしたオスマン帝国政府は保身のみに走り、抵抗運動政権と合流する素振りすら見せなかったため、完全に民衆の心は後者についてしまいます。
そしてメフメト6世は帝位から追われ亡命、ここに600年続いたオスマン帝国は滅亡を迎えたのでした。

 


好きな自国の英雄でダントツ

帝国から共和国制へ移行したトルコで、アタテュルクは初代大統領に就任し、目の回るような勢いで改革を推し進めていきました。

主に政教分離と世俗主義の徹底や男女平等、トルコ語や文字の整備、姓の創設などです。

政教分離についてはアタテュルクが大の酒好きだったため、「飲酒ダメ絶対!!」のイスラム教方面から文句を言われないようにしたかったという説もあります。
現在もトルコはイスラム圏にも関わらず飲酒に寛容なのはこのためだそうで。

これらの改革はあまりにも急進的だったため反抗や暗殺未遂なども起きましたが、その度にアタテュルクは反対派を排除して改革を続けました。

この点に対し「独裁者」とされることもあるものの、アタテュルクの改革のおかげで国土の完全な植民地化を防ぎ、第二次大戦ではほぼ中立を貫くことができたので、現在では「良い独裁者」「建国の父」として見ている人が多いようです。

どこの国でも「好きな自国の英雄は?」というと何人か候補が上がってきますが、トルコの場合はムスタファ・ケマル・アタテュルクがダントツだとか。

日本だと……うーん、ちょっと当てはまりそうな人が見当たりませんね。人気の高さで言えば信長でしょうか?でも嫌いな人も多いですからねえ。

 

政教分離が今も浸透している

アタテュルクの掲げた方針の中でも、政教分離は特に残っているものの一つだと思われます。

不明瞭な記憶で恐縮ですが、昔何かの番組で、トルコ(イスラム圏のどっかだったかも)でキリスト教徒の方とイスラム教徒の方がルームシェアしているという話を見たことがあるのです。

当然ラマダーンにイスラム教徒の方は断食し、キリスト教徒の方はその横で普通に食事をするとか。

日本人からすると「嫌がらせか!」とツッコミたくなるところながら、本人達は「お互いの信仰を守っているだけだから気にしてない」と涼しい顔でした。そりゃそうだけどすげえ話だ。

世界中でこういう相互理解と尊重が当たり前になったら、多くの戦争がなくなるのかもしれませんね。

長月 七紀・記

【参考】
ムスタファ・ケマル・アタテュルク/wikipedia


 



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