新型肺炎(コロナウイルス)のパンデミック騒動で、最近お目にかからない日はない中国の武漢(武漢市)。
今日は◯人感染した。
日本に◯人が入国している。
当局が情報を隠蔽しているんじゃないか――。
そんなニュースの連続にネガティブな印象を抱く方は少なくないでしょう。
いったい武漢とはどんなところなんだ?
そう憤られる方もいるかもしれませんが、当然ながら武漢そのものに罪はなく、その特徴は、温暖で風光明媚、夏が長め、日本の大分市とは姉妹都市提携を結んでいる、美しき都市でもあります。
こんなときだからこそ落ち着いて、武漢の歴史を辿ってみましょう。
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武漢は楚の発祥地「四面楚歌」
「四面楚歌」という故事成語を皆さんもご存知でしょう。
『史記』「項羽本紀」が出典元。
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劉邦と項羽が争ったころの話です。それはざっと以下の通り……。
前202年、項羽とその軍勢は垓下(安徽省宿州市)に追い込まれました。
武勇に優れていたものの、劉邦との争いに敗れた項羽は追い詰められ、敵に囲まれると、ふと、祖国・楚の歌が四面から聞こえてくるのを耳にします。
もはや勝ち目がない――そう絶望した項羽は、愛する虞美人を手にかけ、死へと向かってゆく。
この「四面楚歌」の「楚」こそ、武漢のある地なのです。
粽もドラゴンボートも、楚から始まった
項羽より時代を遡りまして。
楚を代表する人物に屈原(前343年~前278年)がおります。秦の謀略を見抜き、諫言するも聞き入れられず、入水した悲劇の人物です。
屈原をしのび、その遺骸が魚に食べられぬよう、米を投げ入れたものが、端午の節句における粽の由来とされています。
また、屈原を救おうとして舟を出したことが、ドラゴンボートの由来ともされております。
中国のみならず、華僑およびその文化を受け継ぐ地域で、憂国詩人として敬愛されきました。
画材としても好まれた屈原。
横山大観の画をご覧になった方も多いかと思います。
この地の湖北料理は「楚菜」とも呼ばれ、多彩かつ様々な特徴があります。
四川料理のような特徴的なクセがなく、何を食べても当たり外れがない料理とされております。
そんな楚から始まった粽を現在も口にしていると思うと、興味深いものがありますね。
黄鶴楼――呉の孫権が魏に対抗して物見台を作る
武漢は湖北省にあります。
「湖北省」に「北」と入るためか。
北方いずれかのエリアと思ってしまうかもしれませんが、それは誤解に過ぎません。
むしろ南方への入口であり、長江をのぞむ場所です。三国時代ならば、孫氏一族のいた呉の土地にあるのです。
長江こそ、この土地の防衛線として重要な要素でした。
項羽より時代がくだり、後漢動乱の頃。
戦乱の最中に戦死した孫堅の跡を継いだ孫策(175−200)は、盟友・周瑜と手を結び、メキメキと力を伸ばしました。
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その伸長ぶりをみて、人はこう呼びました。
「孫郎(※孫家の若様)こそ小覇王!」
孫策が暗殺されたあと、その跡を継いだ弟・孫権は【赤壁の戦い】で曹操を撃破。
やがて呉を建国します。
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三国時代の到来です。
武漢は、孫権が曹丕を迎え撃つべく備えた場所でもあります。
その城跡に偵察用に築かれたのが「黄鶴楼」。軍事用の施設から、いくつもの漢詩で詠まれる風光明媚な名物観になりました。
湖北の宝玉として
温暖で風光明媚なこの土地は、時代がくだると発展を遂げてゆきます。
水陸交通の要衝でもあり、温暖で美食も味わえる。まさしく宝玉の如き都市として、人々を魅了したのです。
三国時代のあとの魏晋南北朝時代。
中原が五胡十六国が支配する一方で、江南は六朝の貴族が華やかな文化を繰り広げました。
隋から唐、唐から宋へ。
そして宋が分裂すると、亡命政権として南宋が成立。元を経て、明清へと至ります。
かつては中原から見ると異質な文化の地とされていた楚も、時代を経ると、文化が花開く土地として認識されてゆきます。
科挙成績上位者、合格者数も、楚を含めた江南の比率が高い。文化ならば江南であるという誇りが定着してゆきます。
合格しなかった文人たちも、自分たちの暮らす都市で様々な文学を記し、文壇を覆いに盛り上げる。
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そんな江南にある湖北の都、文化の香り高き麗しの都として、武漢は「おすすめのスポット」として人気の都市に。
かくして楚の都は、湖北省の中心として発展を遂げてゆくのです。
近代以降、中国では辛亥革命、日中戦争、文化大革命と事件が続きます。
1927年には汪兆銘による「武漢政府」が置かれたこともありますが、南京に国民政府が成立すると短期間で消滅しました。
かつてはその交通を生かした商業都市でしたが、現在は工業都市としての発展も遂げております。
大型鉄鋼コンビナートが建設され、機械、造船、化学、石油化学、電子、紡績等の工業が建設。外資系の流通企業も増えており、経済の大動脈としての顔を持つようになっているのです。
麗しの歴史と、現在も発展を続ける工業都市としての顔を持つ、そんな武漢――。
2020年、めでたい春節に新たなる困難に襲いかかりました。
その困難を乗り越え、この街が鳳凰のように蘇ることを願ってやみません。
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文:小檜山青
【参考文献】
『江南の発展: 南宋まで (岩波新書 新赤版 1805 シリーズ中国の歴史 2)』(→amazon)
『中国史 (世界各国史)』(→amazon)
『中国の歴史を知るための60章 (エリア・スタディーズ87)』(→amazon)
他