始皇帝/wikipediaより引用

中国

始皇帝~史実の生涯50年を最新研究に基づきマトメ!呂不韋や趙姫との関係は

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暗殺が賞賛されたのは、中国は野蛮だからって?

いえいえ。『忠臣蔵』が賞賛されてきた日本もどうこう言える話ではないでしょう。

始皇帝の暗殺未遂事件を通して、そのあたりを考えてみましょう。

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有名なのはこちらです。

① BC227年、衛・荊軻(けい か)。動機は燕の太子・丹の復讐。失敗して処刑

② 高漸離(こう ぜんり)、荊軻の友。動機は友人の復讐のため。失敗して処刑

③ BC218年、韓・張良、120斤(30キロ)の重りを投げつけ、車ごと潰そうとする。動機は祖国を滅ぼされた恨み。生存して逃亡に成功、劉邦のブレーンに入る

③の場合、動機もわかりやすいものがあります。

張良は秦に祖国を滅ぼされているわけでして、説明はそこで終わりで問題ないでしょう。後に劉邦を支えるだけあって、何らかの手段で復讐を狙っても、それはそういうものです。

それよりも①と②に注目したい。

30代を迎え、安定した統治となりつつあった、そんな始皇帝とその周辺に衝撃を与えた、荊軻による暗殺事件。

まずここから検証してみたいと思います。

 

刺客・荊軻の狙いとは

荊軻の暗殺を辿る時、どうしてもわかりにくさがつきまといます。

『史記』の列伝をベースとしますと、荊軻の個人的な物語を強調するあまり、その勇気や義侠心ばかりが見えてきます。

豪胆さや義侠心ばかりがクローズアップされているのです。個人の動きを注目してしまうと、わかりにくくなってしまいます。

しかも、実はこの暗殺事件、燕の太子・丹の動機がちょっと弱い。

「趙正とは邯鄲で人質仲間で、幼なじみだった。それなのに、俺が秦の人質となっても、特別扱いなしでムカつくんだけど。殺してくれよ」

そんな理由で暗殺って?

ちょっと大人げがないのでは?

そう突っ込みたくなりますね。これも、矮小化しすぎているからでしょう。

秦王正(左)に襲い掛かる荊軻(右)。画面中央上には秦舞陽、中央下には箱に入った樊於期の首が見える/wikipediaより引用

個人的怨恨が発端にせよ、そこには燕と秦という二国間の事情があるはずです。

荊軻にせよ、彼は故郷の衛が秦の支配下に置かれています。

義侠心ばかりでは見えて来なくなるかもしれませんが、張良と同じ動機となる怨恨があっても不思議はありません。

そしてBC227年、荊軻は易水を渡り、秦を目指します。

親友・高漸離の歌が有名です。

「風蕭々(しょうしょう)として易水寒し。壮士ひとたび去って復(ま)た還(かえ)らず」

さて、ここで荊軻の暗殺について、振り返ってみましょう。

始皇帝に近づくための交渉条件の一つとして、燕で最も肥沃な土地・督亢(とくごう)を差し出すことがありました。

地図の箱に匕首(あいくち・短刀)を忍ばせ、地図を広げたところでその匕首を突きつけているのです。

こうした交渉の際、秦では凶器となりうる刃物の持ち込みを禁止しています。

袖を掴まれた始皇帝は身をよじって逃げました。

傍の医者が薬箱を投げ入れ、始皇帝を支援。ちなみにこの交渉の場には、臣下とはいえ無断で進入できないので、こうでもしないと助けようがないのでした。

始皇帝は手にした剣で応戦しようとしますが、抜けません。

「剣を背負うのです!」

そんな助言を受け、やっと剣を抜いて、荊軻を撃退するのでした。

剣は腰に帯びていると、抜きにくいものなのです。

計画に失敗した荊軻。無念の言葉が重要です。

「ここまでしておきながら、燕が奪われた土地を取り戻す約束すらできぬとは……」

つまり、彼の目的は始皇帝暗殺ではなかった。匕首で脅して自国に有利な取引を成立させるということだったのです。

そんなバカな!
と、思われるかもしれませんが、前例はあります。

小国である魯・曹抹は、大国である斉・桓公を匕首で脅し、土地を取り戻したことがあります。

そんな脅して大丈夫なのか?という疑問が湧いてきますが、こうした弱者による強者への抵抗は許容される――そういう道徳観がありました。

それがどこかで誤解が生じ、暗殺計画だと思われた。そういう可能性があるのです。

 

統一の中での義挙

さて、ここで振り返ってみましょう。

東洋史で、暗殺が義挙とされる価値観はなぜなのか?

それはまさに、こうした弱者による圧倒的な強者への抵抗を義侠とみなすことが根底にあるのです。

これは、日本でもかなり長いこと続いております。

明治時代は暗殺者に倒れた政治家が多い時代であり、文明化を進めている当時ですらそんな価値観は生きておりました。

安重根による伊藤博文暗殺事件において、弁護士・水野吉太郎は、安を維新志士に例えています。

圧倒的な強者である日本に一矢報いたいと考えた――朝鮮の志士だとみなしたのです。

暗殺の標的となった伊藤博文も、幕末志士時代は攘夷と称する行為で名を馳せておりました。

この攘夷も、今日の観点からすれば外国人排斥を動機としたテロ行為に他なりません。

こうした考え方は、アジアの歴史を考えていく上で大事なことでしょう。

始皇帝は、法家・李斯のもと、商鞅が開始した行政改革である「変法」を徹底させております。

治水は中国の君主が腐心してきた事業。秦は、咸陽の北東部にある平野に、鄭国渠(ていこくきょ・巨大な用水路)を作りました。結果、四万余頃(けい・約1867万アール)の耕地を開いたのです。

こうした富国と、強兵を実現させていきます。

民にも軍功により爵を与える信賞必罰の徹底。秦の強みである騎馬兵のさらなる訓練により、軍事的にも増強されたのです。

「遠交近攻(遠隔地とは交渉し、近隣を攻める)」を徹底した結果、秦は中国統一に向けて着実に前進していきます。






かくして上から順に6国を滅亡。

BC221年、中国史初の統一国家がついに完成したのです。

王ではなく、皇帝もかくして誕生します。このような状況の中で続発した暗殺事件とは何だったのでしょうか。

それは、秦が中国を統一する過程の中で避けられないことでした。

秦という絶対的な強者が生まれる中、弱者が踏み潰されるままではいられない、一矢報いようとした――そういう現象の現れなのです。

『キングダム』等で魅力的に描かれる始皇帝とその君臣を見ていると、なぜ暗殺されるのか、そこまで怨みを買うものか?と疑問に思うかもしれません。

始皇帝は、六王を殺し尽くしたわけでもありません。

暗殺の動機云々や始皇帝が暴君であるかどうか。そこはこの際、横に置いて考えましょう。

強者に一矢を報いる義挙とは、東洋史につきまとうものであったのです。

テロリズムとは、18世紀末のフランス革命「恐怖政治」を語源とします。

それよりもはるか前に、東洋史には義挙がありました。刺客の勇気を讃えてきた歴史があります。

そうした目線を見直すことも重要ではありませんか。

さて、ここで再び暗殺に話を戻しましょう。

張良の暗殺は、全国を巡行している始皇帝を狙ったものです。

この皇帝の全土巡行とは、何だったのか?

 

皇帝誕生、全国巡行

天下統一、中国全土統一!

当時の言い方にしますと「海内を一統した」ですね。

三国志』のような中国史モチーフとしたゲームであれば、まさにエンディングです。BC221年とは、まさしく始皇帝にとってはこのエンディングを迎えた状態でした。

ただ、ゲームと現実は違います。しかも、史上初です。そうなれば、社会制度の組織からして大がかりなもの。皇帝という称号すら、ここから始まるわけです。

始皇帝といえば、不老不死を目指したイメージがあります。

ただのオカルトマニアというよりも、天下統一という史上初の偉業を成し遂げた、そういう意識もあるのでしょう。

地上を統一したのだから、次は天を目指す。そう思ったとも考えられます。

始皇帝は合理的な考え方をしていたとはいえ、紀元前3世紀の人物です。統一した全土を巡行し、泰山封禅といった儀式にも挑んでいます。

東西南北を見て回り、時には暗殺未遂事件もありながら、始皇帝は充実した時間を過ごしたことでしょう。

巡行だけが仕事でないことは、当然のことです。全土に対して抜本的な改革を行いました。

「封建」制(分封制)を廃止。全国を「郡県制」で再編成しているのです。

日本の都道府県とは異なりますので、ご注意を。地方諸都市である県をいくつかまとめたものが郡です。県の下に郡がある、ここにご注意ください。

はじめは36、のちに48の各郡のもとに、県がありました。

県を統治する者は、中央から特設派遣されます。

こうした郡県制度のもと、秦は民衆を一人一人支配し、人夫として徴用、人頭税の徴収をしたのです。

その一方で庶民の武器所有を制限しました。

皇帝の周囲にある官僚システムも、整備されました。

時代により改変はありますが、基本的なものがここでできているのです。

丞相(じょうしょう)
太尉(たいい)
御史大夫(ぎょしたいふ)

法律と度量衡、そして文字を統一。書体は、竹簡や木簡の記載に適した隷書体で統一されることになりました。

各国の交通をスムーズにするために、車軌の幅を統一しております。交通網が整備された結果、全国の行き来が楽にできるようになりました。

ひとつの中国は、こうして生まれたのです。

一つとなり、平和も訪れるかに思えました。

しかし、そうではありませんでした。

 

変わる中国の英雄像

歴史論争とは、どこの国でもあるものです。

中国にも当然ありまして。国家が規範とする英雄は誰か?ということが論じられます。

そんな論争の中、これは外すべきだとされた人物がいます。

岳飛です。

彼が戦った女真族は、現在の中華人民共和国を構成する満州族のこと。

別の国民である日本人の倭寇相手に奮戦した、明代の名将・戚継光ならばわかる。倭寇の構成員に当時の明人がいたことは、この際ちょっと横に置きましょう。

しかし、岳飛は同じ中国人同士で争ったということになる。これはちょっと外そうか。と、そんな論争が起こるわけです。

とはいえ、これは反発があって保留。英雄は英雄ということになりました。

始皇帝が異民族を防ぐために築き、明代に現在の姿になった「万里の長城」。

この英語名グレートウォールが、実はUMAを防ぐために作られたという映画がありました。

その無茶苦茶な設定ゆえに、散々ネタにされまくったものです。

しかし、こうした歴史論争をふまえますと、実にクレバーな落としどころでした。

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21世紀の現在、長らく中国史で愛されて来た、漢民族の英雄は見方が変わりつつあるのです。

こうした中で、どこまでが中国であるのか。

難しい問題です。

このことは、実は始皇帝から始まるのでした。

 

万里の長城

強大な中国国内を統一した――しかし、そうなると困ることがありあました。

戦争を仕掛けて成立してきた政権なのだから、平和であっても困ってしまうのです。豊臣秀吉の朝鮮出兵も、それが一因として推察されることがあります。

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これと似た部分があるように思える。それがBC215年のことでした。

皇帝の巡行にもひとくぎりが付き、全国を統一して6年目。秦は新たな戦争へと乗り出します。

皇帝に次ぐ地位にまで上り詰めていた丞相・李斯が、この策を猛烈に推し進めました。

その理由は何でしょうか?

「秦を滅ぼす者は胡なり」

このままでは外国人によって、我が国が滅びてしまう。そういう理論でした。

表向きは、領土拡大ではないのです。

確かに春秋戦国時代にも、異民族による侵攻により、漢民族が被害を受けたことがないわけではありません。

そうした歴史的経緯だけではなく、頭曼単于(とうまん ぜんう)という優れた指導者がいたことも、警戒の理由としてあります。

中国史を見ていくと、この後にも異民族と漢民族の深刻な対立があります。

彼らは常に対峙している。ただ、それをまとめる指導者が出て来なければ、そこまで危険ではありません。

優れた人とは、時にそれだけでも脅威となり得ることは、呂不韋でも示されていました。

始皇帝は警戒心が強く、先手を打たねば気が済まない、そんな性質があったのでしょう。

BC213年、前述のグレートウォールこと「万里の長城」の工事が着手されました。

背後には、こうした警戒心があったのでしょう。

さて、この「秦を滅ぼす者は胡なり」ですが、これは現代に至るまで、戦争のよくある理論ではあります。

相手が危険だから先手を打つというわけです。

2003年の「イラク戦争」における大量破壊兵器論が、まさしくこの典型例でした。

トランプ大統領がメキシコからの移民排斥を掲げる動機にも、こうした古来からの論法と通じるものがあります。

そんなものは偽りだという反論も、現在だけではなく当時からありました。そしてこのことが、言論弾圧にもつながってゆく流れも、一致していると言えます。

 

焚書坑儒

始皇帝の行動には、危険を事前に察知し、弾圧するパターンが見えます。

彼自身というよりも、彼のブレーンであった李斯ら法家の考え方でもありました。

始皇帝自身は、家臣や博士たちの議論を戦わせ、見守っておりました。

こうした席上で、李斯の出した異民族相手の戦争を、無意味で民を疲弊させるたけであると、批判する意見が出てきたのです。

これは引き締めが必要だ――。

そう考えた李斯の後押しもあり、言論弾圧である「焚書坑儒」が始まりました。

オカルトじみた予言書に怒ったためであるとか。そうした側面もあるのでしょう。

しかし、時期や李斯の考えを考慮せねば、わかりにくいものがあります。

「焚書坑儒」は儒家からすればおぞましい極悪非道の極みであり、そのため後世さまざまな潤色や強調がなされて来ました。

後世に描かれた想像による絵画は、明らかに問題があります。当時ありえない紙の書物が焼き捨てられていることも。

片っ端から書物を焼き、人を生き埋めにしたわけでもありません。

流言飛語によるデマの拡大。過去の例と結びつけた政治批判が、対象とされたのです。

チンピラが火炎放射器を振り回す、そんなものではないことをご理解いただければと思います。

ただ、だからといって言論封殺が無罪であるわけにもなりませんが。

 

最後の巡行、そして遺勅

BC210年、始皇帝は最後の巡行へと向かいます。

この途中、平原津で病に倒れます。そして……。

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