中国史の本を読んでいると【宦官】という言葉がしばしば登場します。
三国志ですと後漢の朝廷を支配した「十常侍」、劉禅に寵愛された黄皓が有名でしょう。
『水滸伝』の四大姦臣の一人・童貫も宦官です。
彼らの扱いは総じて、主君の寵愛をかさにきて国を滅ぼす原因を作った「獅子身中の虫」というケースがほとんど。
「宦官のせいで国が滅びた!」
なんて、あまりに言われ過ぎるものですから、だったら『なぜ最初から宦官なんて置くんだ? マズイなら排除しておけばよいではないか?』と疑問に思われませんか?
宦官のせいで権力をかすめとられた当時の官僚や軍人たちだって、おそらく同じことを考えていたことでしょう。
ただこれが、後宮で寝起きする皇帝自身や妃たちとなると話は別でしょう。
宦官がいなくなったら明日からどう暮らしたらいいのか。そんな風に途方に暮れたはずです。
なんせ彼らの身の回りを世話するのは宦官と宮女。幼い頃から宦官に頼り切り、成長してからも身の回りの世話を任せていた皇帝にとって彼らはもはや、現代人にとっての家電製品のような必需品、というか人ですね。
皇帝の私生活を支える存在として、宦官は20世紀まで存在し続けたのです。
宦官は、皇帝の心の隙につけ込み、甘い言葉をささやき、そして意のままに操りました。
意志薄弱な皇帝と悪意をもった宦官という最悪の組み合わせは、中国史において何度も登場します。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
「自宮」して人生逆転ホームラン
ではなぜ、宦官という人工的に去勢した男性が用いられるようになったのか。
そもそもは後宮で働く男性たちと、妃や宮女たちとの間にあやまちが起きないよう、去勢したのがはじまりです。
自発的に去勢をしたがる男性なんてそうはいないでしょうから、最初は戦争で捕虜にした異民族や、死刑に次ぐ刑罰である「宮刑(去勢)」を受けた者が用いられました。
李陵の弁護をしたため宮刑にあった司馬遷の悲劇は有名です。
ところが時代が降ると、この状況は変わってきます。自ら去勢し、宦官に志願するものが出てきたのです。
この自宮ブームが頂点に達したのが明代(1368 - 1644)でした。
皇帝サイドでは、幾度も禁令を出してはいたのですが、効果が出ないどころかかえって希望者が増える始末。
家族を失って途方に暮れた、家が貧しい、博打で大負けした、そんな理由で「自宮(自ら去勢)」に及ぶものが続出したのです。
それにしたって、包丁で指をチョンと切るだけでも痛いのが人というもの。ヤケになったからって大事なあの部分を自分で切るなんてそんなバカな、と現代人なら思うところでしょう。
これには理由があります。
中国で官僚になるためにはあの有名な科挙に合格しなければいけません。
この科挙は人類史に残る超難関試験。才能があっても試験官との相性が悪いばかりに落ち続ける人もいたりしますし、ある程度のお金持ちでなければ試験勉強すらできません。
では貧しい庶民には宮廷での出世ルートはまったくないか?というと、そうではありません。
宮廷に潜り込む究極の裏口——自宮して宦官になる道がありました。
科挙、従軍、官吏、そして宦官が庶民の出世ルートになったのです。
※以下は科挙の関連記事となります
元祖受験地獄!エリート官僚の登竜門「科挙」はどんだけ難しかった?
続きを見る
明代の宦官は宮女と疑似結婚できた
宦官になると、国が徴発して行う労役が免除されたため、それを目的として自宮する者もいました。
その数、明代で実に十万人とか!?
欠員補充もそれだけ多くなりました。
さらに権力を握った宦官たちは皇帝並かそれ以上の贅沢にふけり、親族までもその恩恵にあずかります。宦官になればあんな贅沢ができる、と真似する者は当然出てくるわけです。
そうはいっても大事なものを切り取ったら、性的な欲求が満たせなくなるのでは、と思うところではあります。
いや、これがむしろ逆なのです。
明代の宦官は宮女と疑似結婚することができました。プラトニックラブで結ばれたカップルもいますが、欠落したものを別の手段で補う者もいたわけです。
皇后が宮女の持ち物検査をしたら、宦官と使ったいかがわしいものが次から次へと出てきて激怒した、なんて話も。宦官になることは、宮女がたむろするハーレムに入り込むチャンスだったのです。
そもそも宦官がなぜ去勢したかを考えると皮肉なことではありますが。
中にはマザコン気味の皇帝の乳母を籠絡し、権力を握った者もいます。
※続きは【次のページへ】をclick!