宦官

中国

中国史に必ず登場する「宦官」の実態~特に腐敗がヤバいのが明王朝

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赤ん坊のうちに局部を潰す専門の乳母も!?

貧しい家の親は我が子を去勢。

野心にあふれる者や、働きたくない者、科挙に落ちてヤケになった者も自ら去勢。

赤ん坊のうちに局部を潰す専門の乳母が出現するなど、役所や宮殿の外には宦官志願者があふれ出しました。

あまりに多すぎて宦官になれない者は、物乞いになったり、追いはぎになったりして、あふれる去勢者は社会問題として認識されるのですから想像するだけで痛々しい話であります。

こう書くと去勢手術が楽なように思えるかもしれませんよね。

もちろん、そんなことはありません。麻酔なんて当然ありませんから、傷から感染して死ぬ者も当然いました。

専門職の手術でも危険なのに、貧しい人が我が子に施す場合は不潔極まりない環境で施術するわけですから、死亡率はさらに高くなります。

やけになってズバッと自宮なんてした人も、どうなったことやら。役所にたどりつく前に死んでしまった人も大勢いたことでしょう。

しかも、念願の宦官になれたとしても、立身出世できるものはほんの一握り。大多数は後宮でただの雑用係となり、望んでいた富貴栄達とは無縁のまま、ひっそりと人生を終えていきました。

 


宦官のせいで暗君とダメ官僚だらけ

明代はなぜ空前の自宮ブームが起こるほど宦官がはびこってしまったのでしょうか。

初代皇帝の洪武帝は歴代王朝における宦官の弊害を知っていましたので、厳しい制限を掛けました。ところが時代がくだると、状況が変わります。

三代目の皇帝である永楽帝は、甥である二代目建文帝を打倒し、皇位を奪いました(1399-1402、靖難の変)。

しかし、燃えさかる宮廷に永楽帝が入った時、そこには建文帝の姿はありません。

脱出してどこかに逃れているのではないか?

そんな不安に駆られた永楽帝は「東廠」という宦官による秘密警察組織を作り、権力に反する者を監視するようになります。

むろん、永楽帝のような英明な君主ならば宦官をコントロールできましょう。

しかし、その後の皇帝たちはほとんどが宦官に抵抗するどころか、政治を任せるようになってしまいます。

東廠や、臨時で設置された西廠・内行廠。

皇帝の護衛を担当する錦衣衛は宦官以外で組織されていたものの、宦官と協力関係にありました。

明代のこうした皇帝に近く権限を持つ組織は、宦官によって牛耳られ、絶大な権力を持つようになっていったのです。

さらに、明代は皇帝の権力が絶大であることも災いしました。

例えば洪武帝は政治力や実行力にあふれ、かつ猜疑心が強い性格でした。何が何でも自分で決めたい、建国の功臣すら大勢粛清してしまっていた状況では、皇帝の独裁に近い政治形態になります。

歴代皇帝が、この洪武帝のようにバイタリティと知性にあふれていれば問題なかったのでしょうが、

「なんでもかんでも皇帝である朕が決めるなんて面倒で嫌だ」

と思う者も当然出てくるわけです。

そうなると皇帝は宦官に政務を丸投げしてしまいます。

宦官にとっては皇帝が愚かであればあるほど、また政務から遠ざければ遠ざけるほど、権力に近づくことができますから、様々な手段を使います。

わざと皇帝が遊んでいるところに政務を持ち込んだり、ハーレムのような美女だらけのいかがわしい施設を作ってそこに皇帝を入り浸りにさせたり、健康によいと騙してあやしい薬を飲ませ中毒にしてしまったり。

明朝の皇帝は、趣味にかまけて政務丸投げ、引きこもり、遊び過ぎて早死に、あやしい宗教にハマる、薬物中毒、薬物を飲んだ途端に頓死など、尋常ではないレベルの暗君揃いです。

しかし、それもこれも幼少期から宦官たちがよってたかって甘やかし、駄目にしてしまったわけですから当然の結果とも言えるでしょう。

こうした皇帝にかわって権力をふるったのが宦官たちだったのです。

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