こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【始皇帝】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
嫪毐の乱
嫪毐(ろう あい)という人物について書く時、どうしてもゴシップ記事のようなあやしさがプンプンと漂います。
未亡人となった趙姫との関係が途切れなかった呂不韋。これはまずい。呂不韋は考えました。
新しい恋を用意すればいいじゃないか。そんな結論に至ります。
呂不韋は、髭を抜いて宦官として偽装した嫪毐を、愛人として送り込みました。
この嫪毐は、車輪を回せるほど巨大な男性器の持ち主だったという逸話も……。そのせいで、ポルノスターじみた一発屋扱いをされてしまいます。
趙姫との間に子が2人いたことは確か。
しかし、単なる一発屋では、そもそも大規模な反乱なんてできません。
嫪毐は、太后となった趙姫の後ろ盾を背景に長信侯に上り詰めたとされています。
ただし、そんなことだけで出世するものでしょうか?
しかも、一応は太后の関係は秘密であったはずです。
となると当人が、少年王を支えた呂不韋に次ぐ、実力者であったと考えた方が自然でしょう。その証拠に、彼の元には数千人の私奴婢、千数百人の舎人もいたのです。
嫪毐には、危険な要素が揃いました。
◆天変地異による人心の乱れ
◆高い地位
◆秦から離れて籠城可能な領地
◆多数の人材
→さまざまな技能や特技をもつ食客をパトロンとして養う。孟嘗君「鶏鳴狗盗」のように、当時はそのこと自体に大きな意味がありました。
これだけ要素を備えた実力者は、明確な叛意があるかどうかに関わらず、極めて危険です。始皇帝が見逃すわけにはいきません。
反乱の目を未然に摘んだからこそ、決着が素早かったと考えられます。
もしもそんな危険な勢力が、無防備になった成人の儀式の際に蜂起したら?
そうなる前の処断は賢明でした。
相邦の昌平君と昌文君に率いられた秦軍は、嫪毐の元へと攻め込み、数百人を斬首したのです。
嫪毐は、いったんはその場から逃れるものの、莫大な賞金をかけられ、ついには捕らえられてしまいました。
梟首(晒し首)されたものは20人ほど。4千人ほどの関係者が、蜀に流されています。かなりの人数です。それほどまでに、力が集結していたのでした。
このあとの4月。始皇帝は戴冠し、剣を帯びました。
例年にない寒さの春であり、凍死者すら出るほど異常な春でもありました。
呂不韋の死
嫪毐の死は、それにとどまりません。
呂不韋にまで及びます。
始皇帝からすれば、見つめたくない現実が、次から次へと暴かれていったからです。
母と嫪毐の関係。しかも異母弟2名が発覚しました(この2名は処刑)。
呂不韋と母の関係。始皇帝は母を幽閉し、呂不韋を処分できない事情がありました。
彼はあまりに功績があります。王位そのもの、命そのものが、彼あってのものなのです。
そこで取られた処分が以下の通りです。
◆相国は罷免
◆文信侯の爵位は存続
◆生まれ故郷である河南送り
もしも呂不韋が、この寛大な措置に感謝して穏やかに余生を過ごしていたら?
それで終わったかもしれません。
しかし、彼はあまりに切れ者でありすぎました。
パトロンとしての彼を慕い、人材が集まり出したと知ると、始皇帝はその危険性を察知します。
こうなると、もはや蜀送りしかない――そう命じることにしたのです。
BC235年、蜀送りを知った呂不韋は、鴆毒(ちんどく)を入れた酒で服毒自殺を遂げました。
反乱から2年が経過していました。
李斯から学べ「外国人排斥論への対抗法」
こうした混乱の中、始皇帝は「逐客令」を下しております。
外国人排斥の命令であり、食客を集めて力を持とうという者への牽制としては、効果が見込めました。
しかし、李斯が反論します。彼は楚出身であり、呂不韋に見出された一人です。
自分と同じ境遇の人間が、秦で登用されなくなるとしたら?
彼自身だけではなく、国力低下は不可避です。
そしてこの李斯の説得は、21世紀現在でも外国人排斥を訴える相手に流用できるほど、素晴らしい論理に満ちています。
◆我が国が資源に乏しいにもかかわらず、政治・経済・人口・軍事面で優位を保てていたのは、他国のものを受け入れてきたからに他なりません。
◆あなたが身につけているもの。衣類、アクセサリー、調度品。楽しんでいる音楽。そして愛する人だって、外国から来たものばかりです。
◆想像してみてください。こうしたものを排除して、あなたの暮らしは成立するのでしょうか?
始皇帝は納得し、「逐客令」を取りやめました。
結果、李斯は政治的な地位を確固たるものにしています。
倫理的に説得する李斯。それを受け入れる始皇帝。両者の知恵があってこそ、躍進する国づくりができたのでしょう。
この李斯の説得から、私たちも学ぶことがあるはずです。
李斯はじめ法家は、冷酷で人情味に欠けているとして、批判の対象とされて来ました。
しかし、それだけではありません。
今にまで通じる合理性も、そこにはある。時を超えた見識がそこには残されているのです。
※バンクシーは、外国人排斥への対抗として、スティーブ・ジョブスを描きました。彼はシリア難民の子です
趙姫は悪女なのか?
ここで注目したいのが、母・太后のことです。彼女は雍城に幽閉されたとされています。
しかし、BC237年には、咸陽に戻されているのです。
あれだけの騒ぎを起こした母なのに、許せるのか?
そこまで優しいのか? 愛なのか?
そういう感情的要素だけではなく、始皇帝の合理性ゆえの判断でした。
彼は斉の茅焦という人物から、こう説得されたのです。
「夫の生前ならば、他の男と関係を持つのはあってはならないことです。しかし、もう亡くなっているわけでしょう。死人に対して欺くも何もありはしません。それなのに、非合理的な判断をして、母を幽閉している。こんなことをしていたら、親不孝だと思われて、諸侯の信頼すら失いますよ」
始皇帝は、腹は立っているでしょう。
王なのだから庶民と違って、親不孝だのなんだのと適用されなくともよいはず。
ただ、相手の言うこともその通り。そこは認めざるを得ません。
当時の秦では、亡くなった夫への貞操を貫く意味がないと考えられていたことも、かなり重要な点であると思われます。
「嫪毐(ろう あい)と不倫関係にあった」という説明そのものが、秦当時は不成立です。夫が死んだ女性は不倫も何もあったものではないのです。
権力者の正室なり側室であれば、夫が亡くなれば出家して当然です。
20人以上もいた徳川家康の妻・側室ってどんなメンツだった?個性的な女性達に注目
続きを見る
その掟破りが、思わぬ結果につながったことも。
※まだ若い亡父の側室を皇帝が寵愛しました。その結果が武則天です
ヨーロッパであっても、君主の死後、寵姫は修道院送りとなったもの。
中世フランスの美魔女ディアーヌ・ド・ポワチエ~19歳の若い王をメロメロに
続きを見る
それが紀元前3世紀の秦ではそうではなかった。これはかなり重要なことではないでしょうか。
もう一度、ここで考えたい。
始皇帝の母は、悪女でしょうか?
私はそこまで言われるほどのものではないと思います。
◆当時の秦では【不倫】として認識されない
◆嫪毐の乱は始皇帝が相手を危険視し、先手を打った可能性もある
◆この程度では、中国史上悪女ランキング選外では?
無責任な愛の世界が、世界史上類を見ない被害を生んだという点では、楊貴妃の方が悪質に思えます。
彼女の責任はどこまであるか、難しいところですが。
安禄山と楊貴妃の赤ちゃんごっこが安史の乱へ 数千万人が死す
続きを見る
狙いすました知性派ならば、司馬懿夫人・張春華の方が上手でしょう。
ボケ老人のフリして魏を滅ぼした司馬懿が恐ろしい~諸葛亮のライバルは演技派
続きを見る
知名度では劣るものの、宦官とタッグを組んだ客氏は、ずば抜けた悪女です。
史上最悪の宦官・魏忠賢~明王朝滅亡へ追い込んだ極悪カップルの所業
続きを見る
彼女は性的には奔放であったことでしょう。
しかしその言動は受動的に思え、言われるほど毒々しい女性とも思えないのです。
それと、貧しい踊り子からのシンデレラストーリーも、注意が必要です。趙で彼女は我が子を連れて実家に匿われています。
娘を有力者の愛人にして、サクセスストーリーを狙う。そんな実家であった可能性も考えられなくはありません。
彼女の実像は、これからの発掘と史料発見、そして研究によって変わるかもしれません。
そのことが何とも楽しみになってきますね。
※続きは【次のページへ】をclick!