中国

始皇帝の生涯50年 呂不韋や趙姫との関係は?最新研究に基づくまとめ

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変わる中国の英雄像

歴史論争とは、どこの国でもあるものです。

中国にも当然ありまして。国家が規範とする英雄は誰か?ということが論じられます。

そんな論争の中、これは外すべきだとされた人物がいます。

岳飛です。

彼が戦った女真族は、現在の中華人民共和国を構成する満州族のこと。

別の国民である日本人の倭寇相手に奮戦した、明代の名将・戚継光ならばわかる。倭寇の構成員に当時の明人がいたことは、この際ちょっと横に置きましょう。

しかし、岳飛は同じ中国人同士で争ったということになる。これはちょっと外そうか。と、そんな論争が起こるわけです。

とはいえ、これは反発があって保留。英雄は英雄ということになりました。

始皇帝が異民族を防ぐために築き、明代に現在の姿になった「万里の長城」。

この英語名グレートウォールが、実はUMAを防ぐために作られたという映画がありました。

その無茶苦茶な設定ゆえに、散々ネタにされまくったものです。

しかし、こうした歴史論争をふまえますと、実にクレバーな落としどころでした。

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21世紀の現在、長らく中国史で愛されて来た、漢民族の英雄は見方が変わりつつあるのです。

こうした中で、どこまでが中国であるのか。

難しい問題です。

このことは、実は始皇帝から始まるのでした。

 


万里の長城

強大な中国国内を統一した――しかし、そうなると困ることがありあました。

戦争を仕掛けて成立してきた政権なのだから、平和であっても困ってしまうのです。豊臣秀吉朝鮮出兵も、それが一因として推察されることがあります。

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これと似た部分があるように思える。それがBC215年のことでした。

皇帝の巡行にもひとくぎりが付き、全国を統一して6年目。秦は新たな戦争へと乗り出します。

皇帝に次ぐ地位にまで上り詰めていた丞相・李斯が、この策を猛烈に推し進めました。

その理由は何でしょうか?

「秦を滅ぼす者は胡なり」

このままでは外国人によって、我が国が滅びてしまう。そういう理論でした。

表向きは、領土拡大ではないのです。

確かに春秋戦国時代にも、異民族による侵攻により、漢民族が被害を受けたことがないわけではありません。

そうした歴史的経緯だけではなく、頭曼単于(とうまん ぜんう)という優れた指導者がいたことも、警戒の理由としてあります。

中国史を見ていくと、この後にも異民族と漢民族の深刻な対立があります。

彼らは常に対峙している。ただ、それをまとめる指導者が出て来なければ、そこまで危険ではありません。

優れた人とは、時にそれだけでも脅威となり得ることは、呂不韋でも示されていました。

始皇帝は警戒心が強く、先手を打たねば気が済まない、そんな性質があったのでしょう。

BC213年、前述のグレートウォールこと「万里の長城」の工事が着手されました。

背後には、こうした警戒心があったのでしょう。

さて、この「秦を滅ぼす者は胡なり」ですが、これは現代に至るまで、戦争のよくある理論ではあります。

相手が危険だから先手を打つというわけです。

2003年の「イラク戦争」における大量破壊兵器論が、まさしくこの典型例でした。

トランプ大統領がメキシコからの移民排斥を掲げる動機にも、こうした古来からの論法と通じるものがあります。

そんなものは偽りだという反論も、現在だけではなく当時からありました。そしてこのことが、言論弾圧にもつながってゆく流れも、一致していると言えます。

 


焚書坑儒

始皇帝の行動には、危険を事前に察知し、弾圧するパターンが見えます。

彼自身というよりも、彼のブレーンであった李斯ら法家の考え方でもありました。

始皇帝自身は、家臣や博士たちの議論を戦わせ、見守っておりました。

こうした席上で、李斯の出した異民族相手の戦争を、無意味で民を疲弊させるたけであると、批判する意見が出てきたのです。

これは引き締めが必要だ――。

そう考えた李斯の後押しもあり、言論弾圧である「焚書坑儒」が始まりました。

オカルトじみた予言書に怒ったためであるとか。そうした側面もあるのでしょう。

しかし、時期や李斯の考えを考慮せねば、わかりにくいものがあります。

「焚書坑儒」は儒家からすればおぞましい極悪非道の極みであり、そのため後世さまざまな潤色や強調がなされて来ました。

後世に描かれた想像による絵画は、明らかに問題があります。当時ありえない紙の書物が焼き捨てられていることも。

片っ端から書物を焼き、人を生き埋めにしたわけでもありません。

流言飛語によるデマの拡大。過去の例と結びつけた政治批判が、対象とされたのです。

チンピラが火炎放射器を振り回す、そんなものではないことをご理解いただければと思います。

ただ、だからといって言論封殺が無罪であるわけにもなりませんが。

 

最後の巡行、そして遺勅

BC210年、始皇帝は最後の巡行へと向かいます。

この途中、平原津で病に倒れます。そして……。

家臣を集め、始皇帝は後継者を選び、崩御するのです。

享年50。

二代目は誰だ?

扶蘇(ふそ)か?

胡亥(こがい)か?

『史記』では、こんなパターンです。

始皇帝は扶蘇を指名したものの、胡亥と彼を推す李斯と趙高は一計を案じます。

まずは始皇帝の遺勅を破棄。胡亥を後継者として、ライバルである扶蘇と彼を強く推す功臣・蒙恬に死を賜る――そんな偽勅を作り上げたのです。

ただ、これが新出史料である『趙正書』では異なります。

始皇帝が、議論があることをみとめつつ、胡亥を認めたとあるのです。

どちらが正しいのか。判断はできかねます。

ただ、はっきりしていることは、後継者をめぐり秦は一枚岩ではなかったということです。

『史記』の記述によれば、始皇帝の遺勅は破棄されたとあります。

しかし、2013年発見の史料によれば、二世皇帝が「始皇帝の遺勅を守る」と誓った記録が発見されているのです。

果たして遺勅は破棄されたのか。

これも実は断定できないのです。

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