こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【中国王朝の大量死】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
理由③:異民族の侵攻を受けやすい
中国大陸には万里の長城があります。
残念ながらこの壁は敵の侵入を防ぎ切れたわけではありません。
四方を海に囲まれた日本のような国とは違って、中国大陸はしばしば異民族の侵攻を受け、大きな被害を受けました。
安史の乱、明末清初がその典型です。
安禄山と楊貴妃の赤ちゃんごっこが安史の乱へ 数千万人が死す
続きを見る
チンギス・カンやティムールの襲来は、どの地域でも歴史上屈指の悪夢のような侵攻として記憶されています。
中国史の場合、数百年周期でそれと同レベルの侵攻が発生しているのです。
前述の通り、土地が肥沃で資源が豊富なだけに、何度も標的にされてしまいました。
要するに、国家の大きさと人口に比例して、攻め込まれる回数も、戦乱の犠牲者も多くなるということです。
例えばイギリスの薔薇戦争は、権力をめぐる内乱が続いたにも関わらず、ヨーロッパ大陸を巻き込んだ戦争と比較すると死者数は俄然少なくなります。
だからといってイギリス人はフランス人より優しい、というわけではありません。
三国時代はじめ中国史には激しい人口激減の局面が何度も訪れてはおりますが、だからと言って「中国は残酷な国だ!」という結論に結びつけるのは極論でありましょう。
「桃源郷」とは何だろう?
三国時代が終わったあとの、晋の時代。
詩人の陶淵明は『桃花源記』という作品を残しました。
とある猟師が道に迷い、桃の花が咲き乱れる小さな里にたどりつきました。
そこは秦の時代から戦乱を逃れた人々が隠れ住む理想郷です。
「桃源郷」の由来ともなったこの作品を改めて読んでみて、人々の乱世へのおそれを改めて感じました。
酒の流れる川があるとか、美女が音楽を奏でているとか、そんなものはなく、ただ平和である。
それが陶淵明にとっての理想郷でした。
昔読んだ時は特に何も思わなかったのですが、今考えてみると、平穏な暮らしを望む陶淵明の気持ちがわかった気がします。
それだけ生きるのが大変であれば、ともかく平穏であればいいと願うのも納得できます。
平和な世こそ理想郷——戦乱の世を生き抜いた陶淵明ならではの感慨が、そこにはあったのです。
あわせて読みたい関連記事
『三国志』時代は人が大量に死に過ぎ~人口激減で漢民族は滅亡危機だった?
続きを見る
元祖受験地獄!エリート官僚の登竜門「科挙」はどんだけ難しかった?
続きを見る
中国『酷刑』が想像を絶する恐ろしさ~簡単には死なせない“生き地獄”の処刑法
続きを見る
始皇帝の生涯50年 呂不韋や趙姫との関係は?最新研究に基づくまとめ
続きを見る
中国四大美人の伝説&史実まとめ~西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃~それぞれの美
続きを見る
女のために国を捨てたと罵られた明の将軍・呉三桂~本当は裏切り者じゃなかった
続きを見る
文・小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
マシュー・ホワイト/住友進『殺戮の世界史: 人類が犯した100の大罪』(→amazon)