「公にしないほうがいいもの」とされている宗教の話題。
歴史を知る上ではとても重要です。
政治・外交・宗教で区切れば1/3ぐらいを構成するものであり、その誕生や後世の腐敗、繰り返される改革といった話題も多いですね。
今回は、汚職まみれの時代に清貧に生きた聖職者のお話です。
1221年(日本では鎌倉時代・承久三年)8月6日、聖ドミニコが亡くなりました。
修道会の名前にもなっている人ですので、何となく聞き覚えがある方もいらっしゃるかもしれませんね。
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28歳まで長く続いた勉強暮らし 疑問を抱き一歩目を……
ドミニコは、1170年にスペイン・カスティーリャ地方の貧しい農村で生まれました。
母方の叔父が聖職者だった関係で、幼い頃から教会で勉強。
14歳から28歳までは、同じカスティーリャ地方の都市・パレンシアで、パレンシア大学の前身となる学校に通っていました。
人文科学・哲学・神学を学んでいたといいます。
14年間という長い学生生活の中で、彼はふとその日の暮らしにも困っているような貧しい人々を目に留めました。
そして「勉強ばかりしていていいのだろうか」と疑問を抱きます。
しばしの逡巡の後、ドミニコの出した答えは、「彼らに自分の持ち物を譲る」ことでした。
その中には聖書も含まれていましたので、これが初めての布教活動ともいえるでしょう。
離婚も不倫も同性愛もOKな(?)異端「カタリ派」
その後、アナトリア(現在のトルコ共和国がある半島)への伝道を教皇に申し出ました。
当時は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が健在で、カトリックとは少々異なる教義を国是としていたので、自ら広めたいと考えたのでしょう。
しかし、実際に赴任したのは「カタリ派」という宗派が多数を占めていた、フランス南部のラングドック地方。
カタリ派とは、10世紀半ばごろからフランス南部~イタリア北部で活発になっていたキリスト教の一派閥です。
現在は消滅したとされているため、詳しい資料がほとんどありません。
となると、外部の人がカタリ派について書いたものから推測することになりますが、偏見や誤解が混ざっているであろうことを念頭に置く必要が生じます。これは宗教に限りませんね。
カタリ派の思想のベースには、「この世は悪」「人間は悪」という概念がありました。
「欲を断ち切ること」が最重視され、「罪人=全ての人間をこれ以上増やさない」ために結婚を禁じているというのが大きな特徴です。
その一方で離婚・不倫も禁じられておらず、当時のキリスト教でタブーとされた同性愛も異端視されてはいませんでした。
おkというよりは「結婚という概念がない=ルールに背くことにはならない」わけです。
同性愛については「人間が増えないからおk」ということなんですかね。
また、商業や誓約・契約も禁じていました。
そもそもカトリックが腐敗しすぎでは?
こういったカタリ派の考えは、他の宗派が多数派であるヨーロッパ社会では異端とされます。
人間が増えない・商売をしないのでは、国も地域も豊かにならないからです。
となると領主や王様は税収が増えませんし、戦争もできないわけで。
更にカタリ派には
「死の直前に儀式を受ければ、すべての罪が許される」
というご都合的な教義があるため、他宗派で禁じられていたアレコレをやりたいがために入門する人も多かったといわれています。
カタリ派が多数派の都市に移り住む人も珍しくなかったとか。
これもまた、権力者たちには気にいりません。
ただでさえ豊かにならない教義の上に、自分の手元から人が減ってしまうのですから。
カタリ派の起源は、カトリックの聖職者があまりにも腐敗していたため、それに対する民衆の反発ともいわれます。ある意味、プロテスタントの先駆者といえるかもしれませんね。
何にせよ、カタリ派に惹かれる人々が増える一方で、その教義はヨーロッパ社会で次第に異端視されていきました。
ドミニコもカタリ派の人々を「(大多数のキリスト教信者にとっての)正しい教え」に導くため、派遣されたものと思われます。
改宗させるためには自らが厳格にならなければならない
「カタリ派から改宗をさせるためには、カタリ派に負けない情熱と厳格さが必要である」
そう考えたドミニコは、まず自分から清貧な生活をし始めました。
後の絵画でも、質素な衣服で描かれていることが多いのはこのためだと思われます。
自ら実践するあたりがデキた人ですね。
また、ドミニコは当時の聖職者にありがちだった“上から目線”ではなく、心を開いて対話をすることで相手を理解し、それから(宗教的な意味での)説教をしていたそうです。
彼のそうした姿勢に共感する人々が次々に改宗していき、ドミニコに協力したいと考える者も現れました。
そして、1206年にドミニコ会(別名・説教者兄弟会)を結成し、1216年には教皇ホノリウス3世に認可されています。
ドミニコ会は神学の研究に励み、学者を多く輩出したことでも知られるようになっていきます。
後世の有名どころでいうと、15世紀に南米における先住民への非道な行為を告発したバルトロメ・デ・ラス・カサスがドミニコ会出身です。
主の犬 (Domini canis)と呼ばれて
知識が豊富で清貧だったドミニコは、次第に「教義に違反する者」を取り締まる“異端審問官”に任命されることが多くなっていきました。
その職務は厳密かつ忠実。
ラテン語の「ドミニコ会士 (Dominicanis)」をもじって「主の犬 (Domini canis)」とも呼ばれたほどです。
この呼び名は他の人々にとっては畏怖と揶揄、ドミニコ会員たちにとっては誇りであったとされています。
三河武士にとって「犬のような忠義」が誇りであるのと同じ感じですかね。
他の人からすれば、揶揄の意味合いが大きかったでしょうけれども。
日本にも秀吉時代にドミニコ会士がやってきていましたが、既にイエズス会による不況が進んでいたこと、江戸時代に入って禁教が進んだことが相まって、メジャーにはならないままでした。
ただ、密かに隠れキリシタンとしてドミニコ会から教わった教義を受け継いだ人々もいたといいます。
江戸時代の最初期にドミニコ会士が宣教したという薩摩・甑島(こしきしま/現・鹿児島県)の一部では異様な教義に変化したともいわれているそうですが、証拠はなく風評被害の域だとか。
まあ、世界には近代文明との接触を拒んでいる民族も100くらいあるらしいので、“我々や多数のキリスト教信徒にとって”異様な教義があってもおかしくはありませんけれども。一般的な犯罪でなければ、別にいいんじゃないですかねえ。
ドミニコ自身はその能力を買われ、何度も司教になるように勧められていましたが拒み続け、一司祭のままで亡くなりました。
「司教」は教区(宗教的な地域の区分)を一つ預かるエライ聖職者で、「司祭」は町の小さな教会にいるような神父さんのことです。
一般の会社でいえば、平社員が一般人の信者、司教が部長、司祭が課長みたいなものでしょうか。
出世を望まなかったあたりも、ドミニコが日頃清貧な生活をしていたことと合致しますね。
志ある人がエラくなることで、多くの人が救われることもありますから、一概に出世が悪いとはいえませんけれども。
長月 七紀・記
【参考】
ドミニコ/Wikipedia
ドミニコ会/Wikipedia
カタリ派/Wikipedia