ピアノの調べにのって画面に映るのは、贅をこらした英国貴族の館。
磨き上げられた食器、きらめくシャンデリア、花瓶に生けられた花。
『ダウントン・アビー』はまさに優雅極まりないオープニングから始まります。
ところが、本作は最初から波乱の幕開けとなるのです。
物語の舞台となるダウントン・アビー(英国北東部ヨークシャー地方にある設定、架空のダウントン村にあるグランサム伯爵の城館)に、訃報が届きます。
豪華客船タイタニック号が沈没したのです。なんとこのタイタニック号には、グランサム伯爵家の後継者が乗船しており、逃げ遅れていたのです。
この悲劇は長い物語の発端であり、かつ作品を象徴しているとも言えます。
ダウントン・アビーという壮麗な城館は、豪華客船のようにたくさんの人々を乗せて、氷山がいくつも浮かぶ時代の荒波をくぐり抜けていかねばなりません。
舞台は20世紀前半、激動の時代。
本作の人びとが直面する時代の変化を見ていきましょう。
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海を渡ったアメリカからの花嫁
かつてイギリスの植民地であったアメリカは、広大な土地と豊かな生産力を持ち、世界一の大国へとのしあがってゆきました。
国際貿易が盛んになると、アメリカ産の安い穀物がイギリスに輸入されるようになります。
領地で収穫する穀物が収入源であった貴族にとって、これは大幅な減収を意味します。
この解決手段として、英国貴族男性と、アメリカ人富豪令嬢の結婚が流行しました。
英国貴族は金が欲しい。
アメリカ人令嬢の親は、娘を貴族の一員にすることで箔を付けたい。
そんな両者の思惑が一致したのです。
こうして誕生した英米のカップルは、不幸な結果となった例も少なくはなかったとか。
幸い本作のグランサム伯爵ロバートとその妻コーラのクローリー夫妻は、なれそめこそ打算であったものの互いに深く敬愛しあう仲です。
彼らの結婚生活に欠点があるとすれば、娘しか間に生まれなかったことでした。
そしてこれが、本作の大きな鍵となります。
相続制度の壁
莫大な持参金とともに嫁いだコーラですが、彼女とロバートの間には男子が誕生しませんでした。
グランサム伯爵は「限嗣相続」制度を実施しているため、爵位・土地・財産・不動産・屋敷は限定された男性の後継者のみが相続することになります。
そうなると、ロバートとコーラの娘にはまったく財産が相続されないということになります。
このことに特に違和感を抱くのは、当然ながら持参金とともに嫁いだコーラでしょう。
自分あっての資産が、自分の娘に相続されないのですから、納得がいきません。
そこで限嗣相続を解除し、長女メアリーを相続人とすることはできないかとコーラたちは考えるのですが、これがなかなかうまくいきません。
ちなみに本作の脚本家ジュリアン・フェローズの妻が貴族出身なのですが、この限嗣相続の壁に当たって財産を相続できなかったそうです。
本作のプロットにはその苦い経験が反映されているようです。
「成金」の台頭と階級社会の変容
貴族の資産が心もとなくなる一方、新興の資産家が勢いを持ち始めます。
階級の分厚い壁は、だんだんと薄くなってきているのです。
そんな新興資産家を代表するのが、シーズン2から登場する新聞王・リチャード・カーライルです。
傲慢、冷酷、金と権力にものを言わせ、すべてを札束で解決したがる男。
貴族の手放した邸宅を買い、貴族令嬢を妻に迎えることで、ステータスを手に入れようとしています。
彼は本作でもわかりやすい悪役ではありますが、同時に社会変革の申し子でもあるのです。
迷走するご令嬢の婚活事情
貴族が持参金目当てで結婚するほど貧乏になったということは、貴族のご令嬢にとっては受難を意味します。
姉妹にとっての祖母の世代、貴族の配偶者と言えば同じ貴族のご令嬢でした。
ところが母の世代あたりから、貴族夫人の座は金持ち娘たちに奪われ始めたのです。
長女メアリーは、母方の資産を相続できる可能性がありました。
すると多くの金目当ての貴族子息が近寄って来ますが、どうも彼女が相続できそうにないとなると、潮が引くようにさっと逃げてゆきます。
三姉妹はもはや受け身の花ではなく、自ら動かねばならないのです。
婦人参政権運動、女性自立への機運
貴族令嬢といえども、結婚すら難しい時代。
それと同時に、女性がより自立し力を持つよう、意識の変革も進んで来ました。
顕著なのが婦人参政権運動です。
三姉妹の三女・シビルはこの運動にのめり込んでいきます。
他の姉妹、それに使用人たちもこうした世界の流れに無頓着ではいられません。
本作の女性たちは男性よりも社会の変化に敏感で柔軟な対応を見せます。
貴族の令嬢としてではなく、ひとりの女性として何ができるか。
いつまでも男性を待ち、受け身でいる女性でいいのか?
困った女性がいれば、周囲の目をはばかることなく助けるべきではないか?
そんな意志と親切心から、彼女たちは時に大胆な行動を起こします。
テクノロジーの進歩
産業革命から始まった技術革新は、この時代においても様々な変化をもたらします。
蝋燭は電灯、馬車は自動車に変わってゆくのです。
テクノロジーの進歩は必ずしも便利になるばかりではありません。
技術革新の並はある者にとっては伝統の喪失であり、失業を意味することもあるのです。
民族独立への機運 アイルランド独立への道
20世紀初頭、アイルランド独立戦争が勃発します(1919-1921)。
イギリスの片田舎のダウントンは無関係かと思われたところ、アイルランド出身の運転手・ブランソンがこの動きに深く関わることに。
これを皮切りに、日の沈まない大英帝国の全盛期は既に過ぎ去り、莫大な富をもたらす領土は独立によって縮小してゆきます。
第一次世界大戦
こうした歴史の変化の中でも最大の打撃が、第一次世界大戦です。
この長く熾烈な戦いにおいて、ダウントン・アビーものどかなままではいられません。
若い男性は戦場に向かい、看護婦となった三女シビルをはじめ、その姉たちも自らの意志で戦争に協力することとなります。
さらにはダウントン・アビーそのものが戦傷者の療養所に様変わり。歴史の大きなうねりに直面します。
この長い戦争は、衰退に向かう貴族社会に決定的な打撃を与えました。
ノブレス・オブリージュの意識のもと、貴族の子弟たちがこぞってこの戦争に従軍し、そして命を落としました。
後継者全員が落命したため、断絶してしまった貴族、主を失った城館も数多くありました。
いかがでしょう?
まさに20世紀は激動の世紀であると改めてわかったかと思います。
もはやヴィクトリア朝のようにゆったりとした流れでは生きていけないのです。
舞台がたとえ、十年一日の如く時が移ろう田舎の城館であろうと。
本作は冒頭でも書いた通り、基本的に優雅なドラマです。
バラの品評会で誰が優勝するかだの、クリケット大会が滞りなく開催できるかだの、はっきり言ってそんなもん歴史の流れと関係ないのではないかと思われるネタで話を引っ張ります。
しかも中心にあるのは古典的メロドラマのような、素直になれない美男美女の、ままならぬ恋の行方です。
お嬢様につくイケメン執事など出てこない歴史のリアル
それなら別に見なくていいや、と思う方もいるでしょう。
ちょっと間抜けな日本版のサブタイトル「貴族とメイドと相続人」だの「華麗なる英国貴族の館」にイラっときてスルーした方もいるでしょう。
確かにそれも魅力ではあります。
本作で描かれる、華麗な生活を送る貴族たちは実に魅力的です。
日本的にアレンジされた「若いお嬢様に生意気な口を利く若造執事」(※執事は30歳以上、主人に生意気なことなど言わない。そもそも酒類はじめとする物品および使用人全体の管轄が職務なので主人にくっついて回らない。従者の役割と混同している場合が多い。主人の世話にあたる従者にせよ侍女にせよ、同性でなければありえないのでお嬢様に執事や従者は絶対くっつかない。つまり、こういう設定は何重にもありえないのです)というハイクニンジャスレイヤー並に奇天烈なものが一切出てこない、本場の味わいがある貴族邸宅の使用人模様も魅力です。
しかし、です。勘違いしないでいただきたいのですが、本作の歴史好きに訴えかける本質とは、「貴族の城館ですら揺るがす時代の変化、そして崩れゆく伝統社会」のうねりではないか、と思うのです。
シーズン1ではひび割れ程度であったのが、シーズン2以降は深い亀裂として目立ち始めるので、これまたぐっと面白くなります。
時代の変化や流れとは、天下国家の中枢にいなければ実感できないものではありません。
そこから遠く離れた人々の、ささやかな日々や営みが変わることでも表現できます。
小さな田舎の事件にも、その時代を生きる人々の価値観が反映されていたりします。
そういう意味で本作は、大河ドラマより『タイムスクープハンター』に近いかもしれません。
日常という水面に事件という石が投げ込まれ、そのさざなみを観察するような、そんな楽しみ方が本作はできます。
大河ドラマが学んでほしい3つのポイント
ではまるで庭のバラを眺めるようにのんびりゆったりと本作を鑑賞できるかというと、それはないのがこれまたオススメの理由です。
古典的メロドラマ恋愛なんて今更、とは思えないほど焦らします。
ハードでヘビー。台詞を聞き逃せない、毒針のように嫌味をさらりと吐く英国流ウイットも健在です。
本作はまさに極上の群像劇なのです。
2015年日曜夜の大河は『花燃ゆ』よりもコレという声がチラホラあったのも納得がきます(※本作は3015年NHK総合日曜深夜枠で放映されました)。
さてここで、本作から『花燃ゆ』はじめ最近の大河が学ぶべきポイントをちょっと上げていきましょう。
同性愛者の描き方
そもそも大河では小姓と武将の関係のような同性愛や、側室など、当時の価値観に基づく性愛描写がかなり弱くなっている気がします。
夜八時はファミリータイムだからなんて、そんな言い訳は、大人の鑑賞に堪えうるドラマを作ることを放棄しているに等しい甘えなのですが。
『ダウントン・アビー』にはトーマスという使用人が登場しますが、彼は同性愛者です。
これがきっかけで様々な事件が起こります。
制作側ではシーズン1序盤で退場予定だったのですが、役者の熱演もあってか、息の長いレギュラーとなりました。
このトーマス、作中屈指の根性のひねくれた設定なのですが、どこか憎めないところもあり、人気もあるようです。
彼を同性愛者だから同情的に無垢な性格にするとか、あるいは異常性欲を持った変態扱いするとか、そういう「同性愛者ゆえに特別視」するところがないのが本作の秀逸なところです。
思い切って藤原賴長の同性愛を出したものの、賴長の異常性を強調するために性癖を利用していた『平清盛』あたりは、この点まったく駄目でした(※そもそも院政期の同性愛は異常でもなく、『平清盛』には他にも同性愛者が大勢いてその点が無視されていました。ここを突っ込むと長くなるので割愛します)。
ああいう描き方をしている限り、大河は海外進出が難しくなるのではないかと思います。
同性愛は異常性ではなく個性として描写すること。これは大河に限らず、日本のドラマにおいて欠けているところではないでしょうか。
さらに時代性を織り込むのに長けたシナリオだけあり、当時犯罪であり発覚すれば逮捕投獄すらありうる同性愛を、過度にタブー視するわけでもなく扱っています。
現代よりはるかに強い嫌悪感でトーマスを軽蔑しする人物もいれば、「そりゃ法律じゃ犯罪ってことにはなるけど、よくあることでしょうに」と同情を寄せる人物もいます。
当時の価値観で当時を描いた創作ならば、トーマスのような存在を出すことはできなかったでしょう。
同性愛がタブーでなくなった現在だからこそ、かつての同性愛を描くことができているのです。
さらに当時の同性者が困難な時代を生きていると示すことで、現代の寛容が素晴らしいと思えます。
本作で描かれる20世紀初頭の英国は美しいものですが、同性愛者やシングルマザーには厳しい社会でした。
「昔はよかったかもしれない。ただし社会的マイノリティにとってもそうかはわからない」と、過去を美化するだけではなく描くからこそ、本作には深みがあります。
大河でここまで到達できるのは一体いつになるのでしょうか。
日本よ、これが英国のツンデレだ!
昨年『軍師官兵衛』で、糸姫はツンデレという公式サイト記述を見て、怒髪衝天したのは私だけでしょうか。
そんなことを言うなら『ダウントン・アビー』は、主要人物の横に「執事カーソンはツンデレ」、「レディ・ヴァイオレットはツンデレ」、「トーマスはツンデレ」、といちいち書かなくてはなりません。
ざっくり言うと、本作の登場人物は大体ツンデレです。
そもそも小娘だけがツンデレだと誰がいつ決めた……?
もちろん制作者が日本のラノベやアニメを見てツンデレにしたわけではありません。
本作のツンデレは、「己の矜持や威厳を保つためツンツンと分厚い鎧を身にまとった紳士淑女だが、それでも篤い人情はある。冷静な顔でいてふっと見せる、その人情がデレである」という、英国人気質ゆえのものです。
いつもしかめ面の執事が、「メアリーお嬢様がまだ幼かった頃にこんなことがあったんだ」と抑えきれない笑みを浮かべつつ、お嬢様萌えを語る……そういうのが極上のツンデレですよ!
歴史ドラマにおけるツンデレとは、「べっ、べつに!」とわざとらしく姫君に言わせることではなく、封建制度を生きるゆえに心に鎧をまとった男女が、それでもふいに見せる優しさなのです。
今の駄目大河みたいに、オンオフの切り替えもできずに常にヘラヘラしているキャラでは全然駄目!!
大河スタッフも心を入れ替え、ツンデレの原点に立ち戻って欲しい。まずは来年の吉田羊さん演じる小松殿で見せて欲しいところです!!
なぜ恋を秘めないのか。恋愛の障壁を自ら壊す愚かさ
そしてこれが本作から今の大河が学ぶべき最大のポイント。それは「秘めたる恋、恋愛の障壁」です。
『花燃ゆ』が愚かにも参考にしたという少女漫画だって、いきなり相思相愛にはなりません。
過去の因縁、素直になれない気持ち、親友と好きな人が同じ。そういう恋心を秘めなければならない状況、障壁が盛り上げるわけです。
『ダウントン・アビー』はまさにこの秘めた恋、カップルの障壁が盛り上げ最大要素です。
互いに惹かれあって強い運命を感じても、すれ違う二人。
別の相手と婚約してしまう二人……それが本作のポイントです。
「メアリーはマシューとどうなるの? 結ばれるの?」と、全英が固唾を呑んで見守る中、それを意地悪く引っ張って引っ張って……それで興味をそそったのです。
二人が深く思い合うにもかかわらず、意味ありげなまなざしで見つめて顔を逸らす。
そういう場面に何度視聴者がじれったく思いため息をついたことでしょう。
『花燃ゆ』が駄目なのは、せっかく最初からある障壁をぶっ壊し、主人公以下秘めたる思いなど何もないところです。
恋愛ドラマの基礎すら駄目。普通は伊之助の妻である寿、亡き久坂への思いが、障壁として美和の前にあるはずです。
そもそも伊之助への思いだって胸の奥に秘め続けるべきものでしょう。
例えば美和の運命の人である伊之助と、美和の姉である寿が、史実通り仲が良くてもよいと思うのです。
よく出来た姉、相思相愛の姉夫妻を見て「私なんか姉には及ばない……」と切なく忍び泣くとか。
そういう方が今の「馬鹿な姉より私が正しい運命の人!」とドヤ顔しているよりはるかにマシでしょう。
伊之助に心惹かれつつ、久坂に罪悪感を覚えるという描写だってできたはずでしょう。
それが今は秘めることも何のひっかかりも覚えず「旦那様、兄上が大好きなんです!」みたいな脳天気さですからねえ。
どんなに歴史パートが駄目でも、美和と伊之助の恋が切なく上質であれば、ここまで悲惨にならないはずなんですよ。
メアリーとマシューの苦しく切なく波乱万丈の恋みたいに、腕がよければ盛り上げられたはずなんですよ。
本作は「若い女性向け」をうたいながら、そのために用意されたメインイケメンは魅力不足、サブイケメンはクローン状態、スイーツは不味そう、着物は観光地のレンタル並の安っぽさ、ラブストーリーは陳腐そのものですからね。
そんな餌に誰が釣られるんだ。
英国のドラマより少女漫画を読むようなティーン向けだから、とか言いませんよね。
それもおかしいですよね。少女漫画だって姉の彼氏を好きになったら葛藤するでしょう。
実は恋愛パートの方が、歴史パートより「まっとうな感覚」が問われるのです。
歴史パートの違和感はある程度知識がなければ出てこないものかもしれませんが、恋愛パートはより幅広い視聴者に引っかかるものだからです。
下関砲台から撃つのがアメリカ船ではなくフランス船であることに首をひねる人より、姉の夫への気持ちをまるで隠さないヒロインの言動に不快感を覚える人の方が、多いということです。
最近の駄目大河は、当時としてはありえない、下手すれば処刑されそうな描写から、現代として見てもドン引き発言小町ものの変な恋愛事情を描くからまずい。
少女漫画を意識したなんて言わないでください。少女漫画の方がはるかにまともです。読んで勉強してください。
そしてできれば『ダウントン・アビー』レベルの切ない恋愛模様まで到達してください……今年はもう遅いけれども。
武者震之助・記