聖職者というと、やはり清貧かつ皆から尊敬されるような人を思い浮かべますよね。
あるいは「優しい」とか「穏やか」とか。
もちろんそういった方が多いのだと思われますが、中には途中で「……え?」とツッコミを入れたくなってしまうような伝説をお持ちの方もいます。
本日はそんな方に注目。
1182年7月5日はイタリア守護聖人「アッシジのフランチェスコ」が誕生したとされている日です。
カトリックの修道会のひとつ・フランシスコ会の創始者でもありますので、聞き覚えのある方もいらっしゃるでしょうか。
1181年誕生説もありますが、ここではこの年のこととさせていただきますね。
お好きな項目に飛べる目次
もとは「フランスの」という意味の言葉だった
フランチェスコという言葉は「フランスの」「フランク人の」という意味があり、当時は珍しい名前でした。
他の言語だと「フランシスコ」(スペイン・ポルトガル語)「フランシス」(英語)「フランツ」(ドイツ語)となり、世界史ではよく見かけますね。
◆フランシス・ドレーク→エリザベス1世の時代に活躍した海賊兼提督
◆フランツ・フェルディナント→サラエボで暗殺されてしまったオーストリア皇位継承者
見返してみたら、フランツさんは他にも大勢いますね。
ついでにいいますと、日本では「フランシスコ」と呼ぶことのほうが多いようですが、この記事ではイタリア語に近い「フランチェスコ」で統一させていただきます。
若い頃はヤンチャしていたが
他国の名前の元ネタになるくらいですから、アッシジのフランチェスコもさぞ影響力の強い人だというのがこの時点でわかりますよね。
が、その偉大さゆえか、「聖人」のお約束というべきか、幼い頃のことはよくわかっていません。
なぜフランスやフランク人の影響が垣間見える名前をつけられたのかもはっきりしていないようです。解せぬ。
イタリアとフランスはごくごく近所ですから、何らかの関わりがあったことは間違いないでしょうね。アッシジはイタリア半島のど真ん中ですけど。
それはさておき、フランチェスコは若い頃あまり敬虔なキリスト教徒とはいえなかったようです。
勉強や礼儀についてはわきまえていたものの、金遣いが荒く、奇抜なファッションが好きだったとか。まあ若者らしい若者といえましょうか。
人におごるのも好きだったそうなので、友人たちからは人気があったでしょうね。
しかし、当時のイタリア半島は羽振りの良い時期とはいえませんでした。
同じ民族同士ですらまとまっていませんでしたし、教皇と神聖ローマ帝国が対立するわ、それに煽られて各都市の貴族と庶民が火花を散らすわで、とても安定した時期とはいえなかったのです。
……イタリア半島が落ち着いた時期なんてあるかよw というツッコミはやめてあげてください。
父親と裁判沙汰になり、服を脱いで
そういった世情だったので、若き日のフランチェスコもアッシジの一兵士として戦に出たことがありました。
エラくなろうとして、とある騎士のお供を申し出たこともあります。が、自分から言い出したのに、彼は突如として引き返してしまいました。
ここからフランチェスコが神の教えに生きるようになった間の経緯については、これまた謎に包まれています。
一説には、上記の騎士のお供をしているときに神の啓示を受けたとされていますが……まあ900年も前のことですから、逐一記録していなければ忘れられてしまうのも無理はありません。
その後、当時差別されていたハンセン病患者にハグやキス(多分あいさつのチークキス)をしたり、ホームレスにお金をあげたりという善行をするようになるのですが、ここでひとつ問題がありました。
フランチェスコの父は商人だったとされていまして、当然のことながらあとを継いでくれるものと思っていました。
しかしフランチェスコは、父の商品を持ち出して勝手に売り払い、そのお金を協会に渡していたのです。
要するにドロボーですが、神の啓示を受けた彼は「善行のための盗みは盗みではない!」とでも思っていたらしく、堂々としていました。
そして父親と裁判沙汰になるのですが、ここでもフランチェスコは胸を張るばかりか、何と服を脱いでZENRAになります( ゚д゚)ポカーン
何を言うかと思えば、「お父さんにもらったものは全てお返しします(だからこれ以上私のやることに文句を言わないでください)」とタンカを切ったのでした。
そのまま修道士としての道を歩んでいったそうなのですが、当時ってストリーキングに対する罰則とかなかったんですかね。口上はカッコいいですけど。
お金を汚らわしいものと考えていた
このことや後の言動から、フランチェスコのモットーを「裸のキリストに裸で従う」とまとめることが多くなっています。
が、もちろん現代の日本でやると間違いなく捕まりますので、厨二病の方も盗んだバイクで走り出す年代の方も悪い大人も決して真似しないように。
どうでもいいですが、跡継ぎがいなくなった上、弁償すらしてもらえなかったトーチャンが本気でかわいそうですね。
親との縁を切ったフランチェスコは、ガテン系の仕事や托鉢で食事をもらう代わりに、お金には手を触れないようになっていきます。お金を汚らわしいものと考えていたのです。
一人で溜め込むのはいただけませんが、貧者の救済にお金が必要なことはわかっていたでしょうに、不思議なものです。
が、イエス=キリストの教えの中に「お金も着替えも持って行ってはならない」(超略)という話があるので、おそらくはこれを忠実に守ったのだと思われます。
ときには歌や音楽を交えながら説教を!?
この後、フランチェスコは基本的にイエスの教えを模倣した行動をしていきますが、説教だけは違いました。
聖職者が使っていたラテン語ではなく、日常的に使うイタリア語で、誰にでもわかりやすく神の教えを説いたのです。
元から歌うのが好きだったということもあってか、ときには歌や音楽をはさむこともあったとか。
それまでの聖職者とあまりにも違った経緯と言動だったので、アッシジの人々は当初フランチェスコを「何あれキモーイ」(※イメージです)という目で見ていたそうです。そりゃな。
ですが、やがて彼の真意を悟る人々が現れ始めます。裕福な貴族や法律家の中から、自分の財産を全て貧しい人々に分け与え、フランチェスコと共に「持たざる生活」を始める人が出てきました。
そして徐々に信仰を共にする「兄弟」を増やしていった彼らは、二人一組でイタリア各地へ布教していきます。
ここから「小さき兄弟団」という名称が生まれました。
そして12人という記念すべき人数になったフランチェスコ達は、正式に活動の許可を求めて、ときの教皇インノケンティウス3世へ謁見を申し込みます。
が、托鉢や正式な聖職者以外の人が説教をすることは禁じられていたため、なかなかおkが出ませんでした。ルール違反をしておいて後から「認めてください!」って言ったようなものですから、すぐに許可を出す気にはなりませんよね。
それでも何度か謁見を繰り返すうちに、教皇はフランチェスコたちの誠意を認めてくれました。
といっても、「とりあえず活動してもいいことにするけど、何かヘンなことしたら承知しないからな」(超訳)という感じだったようですが。
まあ、いきなり異端者扱いされて火刑台直行よりはずっとマシですよね。
アラビア半島に飛び込んで「キリスト教へ改宗しなさい!!」
こうして教皇から仮の許可を得たフランチェスコたちは、喜び勇んで布教を続けます。
やがてイタリア国外での活動もはじめ、数千人単位の信者を得ることができました。
アッシジの貴族の娘だったキアラという女性もやってきて、後々「フランシスコ会第二会」と呼ばれるようになる女子修道会も設立。
そんな感じでフランチェスコは少しずつ世間にも認められていったのですが、かつてトーチャンと対決したときのような極端さも残っていました。
イスラム王朝真っ盛りのアラビア半島に飛び込んでいって、そのトップであるスルタンに「キリスト教へ改宗しなさい!!」(意訳)と迫ったのです。度胸ありすぎんだろ。
もともとイスラム教は「イエスも神から伝言を預かった預言者の一人。だからキリスト教も親戚みたいなもん」(=啓典の民)という考えがあったので、このスルタンは穏やかに事を収めています。
「改宗はできないけど、遠いところから来たんだからゆっくりしていきなさい」と、フランチェスコをもてなしてくれました。よかったよかった。
一説にはこのとき、フランチェスコは「私とイスラムの教えとどちらが正しいか、火に飛び込んで決めましょう。正しいほうを神が助けてくださるはずです」(意訳)とまで言っていたそうです。
部下の代わりに火起請やった信長もビックリですわ。
最後は追われるようにして隠居へ
スルタンに改宗を断られたフランチェスコは、大人しくイタリアへ帰りました。
が、留守中に許しがたい事態が起きていました。「規律が厳しすぎるので緩めよう」と言い出した人がいたのです。
また、書物を使って勉強している人が会の中にいること、彼らが石造りの家に定住していることを知って、全員を追い出しました。
現代人からすると家で真面目に勉強していることのどこが悪いのかサッパリですが、当時書物は貴重品でしたので、フランチェスコの信念には合わないと考えていたのです。
仲間たちは他の点を含めて、規律の緩和をフランチェスコに頼みましたが、彼はどうしても受け入れられませんでした。
そのため、古くからの同志であるカッターニという人物に代表者を譲って隠居。その後も細々と活動を続けながら、次第に体が弱り、44歳で亡くなります。
極端な言動もある一方で、貧しい人々のことを第一に考えて行動したフランチェスコの考え方は、今も修道会を通じて多くの人の共感を得ています。
現在の教皇フランシスコも、フランチェスコの考えに賛同したからこそ歴代教皇でも初となるこの名前にしたのだそうで。ややこしい言い方になってサーセン。でも事実だから仕方ない。
現教皇は大胆な経費削減など、行動も名前に沿ったものにしていますね。
フランチェスコも今頃は草葉の陰で「そうそう、私が言いたかったのはそういうことなんだよ!」と思っているかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
アッシジのフランチェスコ/Wikipedia