1761年12月1日は、”マダム・タッソー”ことマリー・タッソーが誕生した日です。
ロンドンの蝋人形館で有名な人ですね。
しかし彼女はイギリスではなく、フランスのストラスブール生まれ。
つまりフランス人です。ついでにいうと、タッソーという姓は旦那さんのものなので、生まれた時はグロシュルツ姓でした。
だからこそ「マダム」というフランス語の敬称がついているわけですね。
では、いったいなぜロンドンで有名になったのか。
マリー・タッソーの生涯を振り返ってみましょう。
ドイツ人医師に習い 蝋人形制作を始める
彼女の人生を追いかけてみると、まるで蝋人形館を作るためにレールが敷かれていたかのように思えてきます。
父親はマリーが生まれる前に七年戦争で亡くなっているのですが、母アンヌとともに移住したスイス・ベルンで、彼女は蝋人形作りの師匠と出会うのです。
それはドイツ人医師のフィリップ・クルティウスという人でした。
彼が蝋で解剖模型や人形を作っていたため、マリーも興味を持ったと思われます。
ちなみにアンヌはクルティウスの元で家政婦をやっていました。
未亡人と医師……昼ドラの主人公みたいなシチュエーションですね。大きな戦争があった後には、どこでも見られた光景かもしれませんが。
クルティウスは蝋人形作りの腕を見込まれ、フランス貴族お抱えの人形師となりました。医師としての腕はどうだったんですかね。
まぁそれはともかく、クルティウスはやがてヴェルサイユにも出入りするようになったらしく、ルイ15世の公妾であるデュ・バリー夫人の蝋人形も作っています。
数年して、クルティウスはアンヌとマリーをパリに呼び寄せました。
彼はマリーに蝋人形作りを教え、大規模な展示も行うようになっていきます。……助手が欲しかっただけだなんてそんなまさか。
ナポレオンやルイ16世などとも親交があった
手に職をつけることができたマリーでしたが、フランスは少しずつ不穏な空気を強めていきます。
18世紀後半のフランスといえば、誰もが革命と無関係ではいられなかった時代ですよね。
おそらくクルティウスとともにヴェルサイユや貴族のサロンに出入りしていたのでしょう。
マリーは、ロベスピエールやナポレオン、ルイ16世とその妹エリザベートなど、革命の主要人物とも知り合っていました。
しかし、これがきっかけで王党派という疑いをかけられて捕まってしまったのです。政治活動をしたわけでもないのに、イチャモンもいいところですね。
一時はマリーも処刑寸前まで行っていたらしく、ギロチンに備えて丸刈りにされるほどでした。
すんでのところで蝋人形作りの腕を買われて釈放されましたが、それは「処刑された人々のデスマスクを作らされる」という過酷な代償も意味していました。
処刑されたルイ16世やマリー・アントワネット、ロベスピエールなどのデスマスクは、マリーの手によるものといわれています。
身分の差がありますから、直接言葉をかわしたことがあったかどうかは怪しいですけれども……。
少なからず会ったことがあるであろう相手の首だけに触れ、物言わぬ顔を象るという作業を、彼女は一体どんな気持ちで行ったのでしょうか。
正確に知るすべはありませんが、ロンドンの蝋人形館にある「恐怖の部屋」はこの時の体験を元にしたものといわれていますので、マリーの記憶の中で何度も反芻されたことは間違いないでしょう。
検索すると数多の画像が出てきますので、グロ耐性のない方は控えたほうが良いと思います。
人形だとわかっていても、彼女が実際に見た光景だと思うとなかなかSAN値にキますので。
マリーはこの部屋を実際よりもかなりスプラッタな感じに作ったそうですが、面白半分というよりは、おそらく印象の強さを血糊の多さで表したのでしょう。
長男を引き連れ ロンドンで蝋人形展
1794年に恩師クルティウスが亡くなると、マリーは遺作となった蝋人形を相続しました。
翌年、馴れ初めは不明ながら、土木技師のフランソワ・タッソーと結婚しています。
マリー34歳、フランソワ25歳だったそうなので、結構なロマンスがあったのではないでしょうか。その後二人の息子に恵まれています。
しかしマリーは蝋人形展のため、長男ジョセフだけを連れて1802年にロンドンを訪れてから、以降、母や夫に再会することはありませんでした。
これまた時代の流れなので仕方がないのですが、フランス革命の次といえばナポレオン戦争ですよね。
マリーが渡航したのがちょうど開戦の直前だったので、展示が終わってもすぐには帰れなかったのです。
子供を連れてぼーっとしているわけにもいきません。
そこで、マリーはしばらくイングランド・スコットランド・アイルランドを渡り歩いて展示を行いました。
「しばらく」といっても約30年ほど……現代で言えば転勤族みたいなものでしょうけれども、この状況に適応したジョセフもすごいですね。
この間に諦めがついたのか、母国よりも魅力を感じたのか、マリーは生涯フランスに戻ることはありません。
次男のフランソワ(父親と同じ名前)だけは成長した後、母の元へ来てジョセフと共に母の仕事を手伝っています。
旦那が可哀想に思われるかもしれませんが、いわゆるギャンブル狂だったそうなので、むしろよかったかもしれませんね。そんな父親のもとでずっと育ったフランソワ(息子)もすげえ。
そしてマリーはロンドンに蝋人形館を開設します。
1835年、既に彼女は74歳になっており、それから亡くなるまでの15年間、ここを拠点として活動し続けました。
1838年には回想録も書いていますし、「恐怖の部屋」の再現度、30年間も興行を続けた体力からすると、かなり心身ともにエネルギッシュな女性だったのでしょうね。
いや……過酷な体験を昇華するために、彼女は蝋人形を作り続けたのかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
マリー・タッソー/wikipedia