「人生山あり谷あり」とはよくいったものです。苦難がいつ終わるのか、あるいは抜け出せるのか不明なために、途中で疲れることも多いですよね。
世の中には大勢の人がいるので、その起伏が激しかったり、なだらかだったりと個人差がある一方、大きな山や谷がない上に、類まれな才能を持って生まれてくる恵まれた人もおりまして。
1829年(日本では江戸時代・文政十二年)6月8日は、画家のジョン・エヴァレット・ミレーが誕生した日です。
同時代の別の画家ジャン=フランソワ・ミレーと区別するため、日本では「ミレイ」と書くことが多いですね。原語だとそれぞれ「ミエー」「ミレイス」と発音しているような気がしますが(※個人の聴覚によります)。
ちなみにミレーのほうが先に生まれており、社会的地位や画家としての年季はミレイのほうが上です。
当コーナーでは例に従って、主役の方をファーストネームの「ジョン」と呼ばせていただきますね。……ファーストネームもそっくり過ぎ。
11歳で美術学校の名門へ 16歳で鮮烈デビュー
ジョンは、イギリスの旧家に生まれました。
幼い頃から絵画の才能があることはわかっており、9歳でロンドンの画廊に入り、11歳でロイヤル・アカデミー附属美術学校に入学許可を出されています。もちろん史上最年少です。
さらに、16歳で「ペルーのインカ王を捕えるピサロ」という作品で、ロイヤル・アカデミーのサロンに初出品しました。
これはタイトル通り、インカ帝国最後の皇帝・アタワルパがスペイン人のコンキスタドール(新大陸遠征軍のトップ)であるフランシスコ・ピサロに追い詰められ、捕らえられる現場を描いたものです。
アタワルパの驚愕と怯えが混ざったような表情が何とも生々しく、これを10代半ばの少年が描いたとは思えないほど、リアリティに満ちています。
また、歴史画は当時絵画のジャンルとして最高ランクのものとみなされていました。
つまりジョンは、最も権威の高い題材を、年齢に見合わぬほどの画力で描き出し、鮮烈なデビューを果たしたわけです。
もちろん当時の画壇でも、ジョンは天才少年とみなされました。
しかし、やはり何もかもがうまくいくとは限りません。
21歳のときに描いた「両親の家のキリスト」は、かなり厳しい評価を受けました。
画力が落ちたとか構図がおかしいという話ではなく、あまりにもイエス・キリストや聖母マリアを人間らしく描いてしまったことが、当時はウケなかったのです。
「二都物語」で知られるチャールズ・ディケンズも、この絵を指して「キリストが赤毛で首のねじ曲がったただの少年にされている」と散々なコメントを出しています。
あまりに評価がひどいので、ヴィクトリア女王が「両親の家のキリスト」を手元に取り寄せて、直々に鑑賞したというほどです。女王の評価は伝わっていませんが、おそらく絶賛ではなかったのでしょう。
モデルが風邪って……途中で休憩しなかったんか~い!
いずれにせよ、ジョンにとってショッキングなことでした。
彼はこの絵を描くにあたってかなり気合を入れており、聖母マリアの夫であるヨセフが大工だったことから、大工の家に泊まり込んで取材したほどだったのです。
これ以降、ジョンはあまり聖書を題材とした絵を描かなくなりました。代わりに文学やオペラなどをテーマに選ぶことが多くなります。
日本でもよく知られている彼の代表作「オフィーリア」も、この時期の作品です。
これもかなり気合の入った作品で、
「実際の小川に行き、屋外で数ヶ月かけて描いた」
「オフィーリアの部分は自宅のバスタブで、モデルにポーズをとらせた」
といった裏話が伝わっています。
ちなみに、モデルがあまりにもバスタブにいたため風邪をひいてしまい、彼女の父親から治療費を請求されたそうです。途中で休憩とかしなかったんか~い!
しかし、「オフィーリア」は当時はさほど高評価を得てはいませんでした。
同じ時期の「聖バルトロマイの祝日のユグノー教徒」という男女の絵のほうがウケていたのです。
こちらはフランスでユグノー(カルヴァン派のプロテスタント)が迫害されていた時代を題材に取った「ユグノー教徒」というオペラを基にして描いたものでした。
女性が恋人の男性にカトリックの証となる白い布を腕に巻こうとしているのですが、ユグノー教徒である男性はそれをやんわり拒んでいるという構図です。女性の涙を堪えるかのような表情と、何かを悟ったような男性の伏し目が、この場の空気を感じさせます。
「オフィーリア」は場面が場面なので一見不気味だと思う人も少なくありませんが、「聖バルトロマイの祝日のユグノー教徒」は恋人同士のワンシーンなので、より多くの人に受け入れられたのでしょうね。
ありのままを描いた肖像画が支持されて
何はともあれ、こうして実力と名声を上げていったジョンは、24歳の若さでロイヤル・アカデミーの准会員に選ばれました。
天才でもこのくらいの年齢になると挫折なり不遇をかこつなりのトラブルを経験するものなのですが、彼の場合快進撃が続きます。34歳のときにはロイヤル・アカデミーの正会員になってしまいました。いや、いいことなんですが話の盛り上がりに欠kゲフンゴホン。
新鮮味を求めてか、40代からはイギリス史を基にした絵も多く描くようになっていきます。
また、肖像画によって大きな収入を得られたため、ロンドンのケンジントン地区に広大な自宅兼アトリエを購入しています。
ジョンの肖像画は、本人を過剰に美化せず、ありのままを描いたことで非常に評判が良かったそうです。政治家も多く手がけており、ヴィクトリア朝の政治家として有名なウィリアム・グラッドストンやベンジャミン・ディズレーリの肖像画も、彼によって描かれたものです。
「オフィーリア」の作者と、グラッドストンやディズレーリを描いた人が同じ、というのは意外ですよね。
大人の絵だけでなく、「塔の中の王子たち」をはじめ、子供の表情も生き生きと描いています。
画家として初めての貴族
人物を入れない風景画も、後半生になってから新しく描くようになりました。
特にスコットランドの風景を好んで題材にしています。中でも「穏やかな天気」は写真と見分けがつかないほどの写実さです。
新しい題材に挑みつつも、決して技術が後退しないというのは、どの世界でも稀なことです。
政府や王室もこの偉業を称え、1885年にジョンをイギリス出身の画家として初めて世襲貴族に叙しました。
1896年にはロイヤル・アカデミーの会長にも任じられましたが、その半年後に亡くなっていますので、実務に関わることは少なかったと思われます。
そんなわけでイギリスきっての高名な画家……のはずなのですが、日本ではやはりジャン=フランソワ・ミレーのほうが有名すぎて、ジョンについては「オフィーリア」以外があまり知られていないようです。もちろん、ジョンのほうが好きだという方もいらっしゃいますけれども。
2008年に渋谷・Bunkamuraでやったきり、日本ではジョンの作品だけを集めた展覧会は行われていないようですしね。
来年で10年経ちますし、そろそろどこかでもう一度やってくださらないでしょうか。
芸術に優劣はなく、良いものを多く見るのはいいことですしね。
長月 七紀・記