学者や作家など。
「世間からズレていること」が必須みたいな職業ってありますよね。
新しいことを見つけたり生み出したりするには、常識だけではやっていけない。
それだけに「どういうことなの……(´・ω・`)」ということも多いわけで。
本日はそういう類の人だったと思われる、とある文化人(?)のお話です。
1821年(日本では江戸時代・文政四年)3月19日は、リチャード・フランシス・バートンが誕生した日です。
「千夜一夜物語」(アラビアン・ナイト)の英訳者としての面が一番有名ですが、彼の生涯は紙の上どころか常識にとどまらないものでした。
個人的には「イブン・バットゥータと南方熊楠と石原莞爾を足して割ってイギリス人にしたような感じの人」と評したいと思います。
石原についてはまだ取り上げていませんが、他の二人については上記のサイト内リンクから過去記事をどうぞご参照ください。
アガサ・クリスティーも生まれた英国トーキー出身
バートンが生まれたのは、イギリス南西部デヴォン州にあるトーキーという町です。
これより70年ほど後にはミステリー作家アガサ・クリスティーも生まれるのですが、知的好奇心をくすぐるような土地柄なんですかね。
バートンは、父が気管支喘息を患っていたため、一家は空気の良いところを求めてフランスやイタリアなどあちこちに移り住みました。
が、青年になる頃にはイギリスに戻ってきていたようで、彼は19歳でオックスフォード大学に入学しています。
ということは頭脳明晰だったはずなんですが、よりにもよって超名門校で飲酒や決闘といったヤンチャにもほどがある行動を繰り返して、2年で退学になっています。2年も我慢してくれた、と見るべきか。
父親はこのダイナミックドラ息子を見捨てず、軍に入るよう勧めました。
巡礼者に変装してメッカに入ったり
バートンは親に逆らう気はなかったのか、おとなしく従ってインド駐屯軍の一員となります。
現地では軍の仲間や上司である白人よりも、現地住民であるインド人と気が合ったようです。
彼らの待遇を改善するよう、上に訴えかけたこともあったほどで、当然のように無視されています。
29歳のときに帰国してから軍を辞め、3年後には王立地理学会からの援助で中東へ。
巡礼者に変装してメッカに入ったり。
ムスリムの神学者とイスラム教の教義についてガチで討論したり。
エチオピアの交易都市・ハラールまで行ったり。
ある意味やりたい放題です。
3年間詰め込んだとしても、常人ではとてもそこまでのレベルにはなれない気がするのですが……やはり天才とナントカは紙一重なのでしょうかね。
ちなみに、ハラールの後ソマリアに行ったのですが、そこで「現地住民に槍を投げられ、左頬から右上顎に貫通する」という重傷にも程がある怪我をしています。
当然のことながら左頬に跡が残ったそうなのですが、そもそもよく生きていたものです。
また、クリミア戦争ではオスマン帝国側の非正規軍の隊長をやっていたとか。
イギリスもクリミア戦争に参加していたんですから、普通にイギリス軍に入ればいいと思うのですが……「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」(※)というやつでしょうか。
ナイル川の源流を……探すゾ、探すゾ、探すゾ!
クリミア戦争の後は、友人の探検家ジョン・ハニング・スピークと一緒に壮大な旅に出ます。
「ナイル川の源流を探す」
というものでした。
翌年、タンザニアのタンガニーカ湖を発見し、
「こんなに大きな湖なんだから、きっとこれがナイルの源流に違いない!」
とバートンも主張します。
しかしジョンは「他にも湖があるかもしれない」と言い、探検を続けました。
そして、ケニア・ウガンダ・タンザニアにまたがる、さらに広大な湖ヴィクトリア湖を発見しました。
アフリカにあるのに「ヴィクトリア」とついているのは、ヴィクトリア女王の治世中にイギリス人が発見したからです。
ジョンとの間で泥沼の論争に
バートンとジョンは互いに自説を曲げず、ぶつかりあうことになります。
しかし、帰路でバートンが病気になってしまったため、現地で療養している間にジョンが単独で帰国しました。
それだけならまあいいとしても、ジョンは自説を学会に発表するという強引な手に出てしまいます。
これを知ったバートンは当然怒り爆発。
数年に渡って論争を繰り広げました。
ちなみに、現代では「ヴィクトリア湖に注いでいる川の中で、一番長い川がナイル川の源流ね」ということになっているので、バートンもジョンも完全に正解とはいえない感じになっています。
ヴィクトリア湖のさらに南、ブルンジという国にあるルヴィロンザ川という川だそうで。グーグルマップでも出てこないので、小さな川なのかもしれません。
王立地理学会からはジョンよりもバートンへ先にメダルが送られているので、当時はバートンの説が正しいと思われたのでしょうか。
授与の理由は「東アフリカ探検の功績」を証してというものだったので、また違うかもしれませんが。
晩年英訳の「千夜一夜物語」
1860年からは、所変わって北米大陸の探検に出かけます。
まずはハリファックスに渡り、その後カナダ東部からアメリカ西海岸、はたまたパナマまでという広大な土地を旅した後、カリブ海のセント・トーマス島からイギリスへ帰国。
その翌年に結婚しているのですが、探検の功績が評価されてか、すぐにスペイン領西アフリカの領事として単身赴任を強いられました。タイミング悪すぎ。
さらに、1865年にはジョンとの決着をつけるため、学会で討論しようとしたところ、なんと前日にジョンが銃の暴発で亡くなるという事件が起きます。
自殺説もあります。
それだと「ジョンは討論でバートンに勝てそうにないから……」という感じになってしまいますよね。それはそれで(´・ω・`)
さすがのバートンもショックを受けたようで、ブラジルやシリアの領事を歴任するなど、仕事にある意味救われたようです。
ついでにあっちこっちを旅行や探検しています。
最終的にはトリエステ(現・イタリア)で亡くなるまで領事を務め、合間にインドや西アフリカを再訪していたようなので、やはり白人社会より有色人種の国々のほうが性に合ったようです。
「千夜一夜物語」の英訳は彼の晩年に行ったものです。
もしかしたら老いて現地に行けなくなったからこそ、かつて訪れた土地への思い出を込めて手掛けたのかもしれませんね。
長月 七紀・記
※「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」……ツバメやスズメのような小さな鳥には、コウノトリやオオトリといった大きな鳥の考えることはわからない。転じて、「器の小さい者には大人物の考えは理解できない」という中国のことわざ
【参考】
リチャード・フランシス・バートン/wikipedia