国家の個性や国民性の違いって面白いですよね。
気候や周辺国との位置関係、はたまた食べ物や行事などいろいろなところに現れますが、少なからず影響を与えているのは、歴代の支配者でしょう。
本日はあの国が「◯◯◯◯◯」と呼ばれるようになったきっかけの一つっぽい、とある君主のお話です。
1584年(天正十二年)3月18日は、ロシア皇帝・イヴァン4世が亡くなった日です。
当時はまだ「ロシア」という名前の国ではなかったのですが、わかりやすさ優先で行きますね。
「雷帝」というファンタジー系のRPGででも出てきそうな異名のある皇帝ですが、これが洒落になっていないのですからたまりません。
どんな人だったのか、さっそく生涯を追いかけてみましょう。
……と、その前に当時のロシアがどんなところだったかを簡単にお話しておきましょうか。
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ウクライナの首都キエフから始まった
「おそロシア」なんて囁かれたりするロシア。
そんな雰囲気になったのは、長い歴史の中ではさほど昔ではありません。
今日「ロシア」と呼ばれる国は、現在のウクライナ付近から始まりました。
ヨーロッパでフランク王国ができ、北欧ではヴァイキングがいろいろやっていた頃にあたります。概ね88~10世紀くらいでしょうか。
都市国家がいくつかできていき、その中で中心になったのがキエフでした。現在はウクライナの首都ですね。
余談ですが、ロシアのイメージが強いものの中には、ウクライナ発祥のものがたびたび見受けられます。ボルシチとか。
10世紀末にはキリスト教(ギリシア正教)が伝来し、都市国家よりも少し大きな規模の国がいくつか生まれてきます。
が、国が大きくなる前に、東西両方向からイヤなお客さんがやってきました。
西からはカトリックを布教する騎士修道会、東からは中世世界史でお馴染みのモンゴル帝国です。
モンゴルに反撃できたのは14世紀のモスクワ大公国
13世紀はそんなこんなで国が強くなる余裕もありません。
モスクワ大公国という国ができた14世紀中頃から、モンゴルに反撃できるようになっていきます。
モスクワ大公国は周辺の小さな国を吸収し、成長していきました。
イヴァン4世のじーちゃんであるイヴァン3世の頃には、モンゴルの支配から完全に脱することに成功。
つまり、イヴァン4世が生まれたころのロシアはまだ、「独り立ちしたばかりの若者」といった状態だったのです。
しかも、父親のヴァシーリー3世が正教会の反対を押し切って再婚した、二人めの妃との間に生まれたため、「邪悪な息子」とまでいわれていました。
さらに、イヴァン4世がたった3歳のときにヴァシーリー3世が亡くなってしまい、文字通りの幼君として君主になっています。
かなりハードモードな人生のスタートですよね。
もちろん始めのうちは、母や貴族たちが政務をとっていました。
母が亡くなると貴族たちの間で権力争いも起きましたが、イヴァン4世は熱心に勉強し、君主としての心得を身につけていきます。
しかし、その一方で動物をいたずらに殺したり、同年代の貴族の少年たちと暴れまわったりと、秀才の一言ではあらわしがたい性格も見せています。
どこの国でも、一人や二人はいますけれどね。
17才頃から親政をスタート 一番幸せな時代だった!?
名実共にロシアの主、そして皇帝として戴冠したのは、イヴァン4世が17歳の時のことでした。
「ツァーリ」という称号はこれ以前からありましたが、この称号を戴いたうえで戴冠したのは、イヴァン4世が初めてだったのです。
イヴァン4世の誕生にはケチをつけた正教会も、戴冠式で皇帝に冠を授けることで権力を誇示できたので、溜飲を下げた感があります。
それまでは母方の親戚がデカい顔をしていたのですが、イヴァン4世の即位と同じ年に起きたモスクワ大火の責任を疑われて失脚しました。
こうして若き皇帝は、さっそく親政を行っていくことになります。
また、貴族のロマノフ家からアナスタシアというお嬢さんを妃に迎え、プライベートでも充実した生活を送っていたようです。
この辺が彼の一番幸せな時代だったでしょうね。
後々ロマノフ家が皇帝になるのは、このとき皇帝の姻戚になっていたことも大きいのだとか。ロマノフ朝の初代ミハイル・ロマノフは、アナスタシアの兄ニキータの孫にあたります。
政治改革を敢行するも、愛する妻アナスタシアが亡くなり……
イヴァン4世はさまざまな政治改革を行って、ロシアを発展させていきました。
それまでロシアの政治は大貴族による会議を主軸にしていましたが、もう少し勢力の弱い中小貴族や聖職者なども参加できるようにしています。
また、地方の政治についても代官を送るのではなく、自治を行わせることによって政治の腐敗を防ごうと試みました。
ロシア正教会についてはあまり幅を利かせないよう、「皇帝の許可を得なければ領地を増やせない」という制度を作っています。この後もロシア皇帝とロシア正教会は静かな戦いを続け、両者の力関係がはっきりするのはピョートル1世の時代のことです。
当初はこのような先進的な政治を行っていたのですが、23歳のときに患った大病が治ったころから、イヴァン4世に少しずつ暗雲が立ち込めてきます。
快癒を神に感謝するための巡礼からの帰りに皇太子を失ったり、対外戦争の戦況が思わしくなく、近臣に対して疑いを抱いたり……挙句の果てに、愛する妻・アナスタシアが若くして亡くなってしまいました。
アナスタシアはイヴァン4世の短気ぶりをうまくなだめすかして、家庭でも国政の上でも空気を和らげていたのです。
その彼女がいなくなっては、イヴァン4世の激しい部分が抑えきれなくなるのも時間の問題でした。