「お前はどこの世界から来たんだ」とか「人間じゃないって言ってくれよ」と思わざるを得ない能力・思考の持ち主。
いくつかレベルもありますが、本稿の主役は【ギリギリ実在を信じられる】あたりだと思われます。
ユリウス暦1725年(日本では江戸時代・享保十年)1月28日、ロシアの皇帝・ピョートル1世が亡くなりました。
いろいろな意味でデカイ人だったので、「大帝」とも呼ばれます。
ロシアにはもう一人「大帝」がいるので、単にこれだけだと話が通じないこともあるんですけどね。
エカチェリーナ2世です。覚えておくと便利かも?
ともかく、ピョートル1世がなぜ大帝と呼ばれたのか?
見て参りましょう。
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相手が外国人でも貧しい者でも分け隔てなく
幼い頃のピョートル1世は母が後妻だった&末っ子だったため、兄や姉に翻弄されて育ち、身分も安定していませんでした。
住んでいたのも宮殿ではなく郊外で、さまざまな身分や国籍の人がいるエリア。この頃の諸々がピョートル1世の性格や方針の基盤になっています。
たとえば外国人とも親しく付き合い、貧しい身分の者でもこれはと思えば家臣にしたりしていました。織田信長とちょっと似てますね。うつけ扱いはされてなかったようですが。
きちんと皇帝家に生まれたのですから、当然彼にも継承権はありました。が、異母兄のイヴァン5世が即位したことで、ピョートル1世はあくまでその下位に押さえつけられてしまいます。
まぁ、実権は異母姉・ソフィアが握っていたので、二人ともお飾りみたいなものだったのですが。ネーチャンこええ。
しかし、このお姉さんが何というか凄まじい人で、対外戦争を何度もやっては失敗し、貴族達の反感を買います。立ったー! フラグが立ったー!
皇帝の座に就くも、自ら政務を執らず なぜ?
そこでピョートル1世の母の実家・ナルイシキン家が中心となり、彼を正式な皇帝にしようと動き始めます。
当然のことながらソフィア派とは激しく対立しますが、ソフィア達が清王朝との条約で不凍港を得るチャンスをぶん投げてしまったため、その他貴族や市民からも反感を買ってしまいました。
そしてソフィアと愉快な仲間たちは宮廷を追われ、ピョートル1世とナルイシキン家が実権を握るようになります。
ただし、当初のピョートル1世は自ら政務を執ろうとはせず、上記のような郊外をよく訪れていたといいます。
パッと見ワケがわかりませんが、後々の行動からすると考えがあってのことだったのでしょう。行動した結果、結論が出たのかもしれませんね。戦争の時には自ら前線へ赴くなど、とにかく身分の割にアグレッシブな人なので。
もっと恐ろしいのは、歴史上そういう君主が彼一人だけじゃないということですけどね……。
身を隠して留学するも身長2mの巨漢でバレバレ
さて、ピョートル1世の偉業はいろいろありますが、中でも異彩を放っているのが25歳のときのヨーロッパ遊学です。
つまり、皇帝に即位してから自ら他国を旅し、勉強しに行ったわけです。
岩倉使節団も結構思い切った計画ですけども、こっちは現役の皇帝が国を空けちゃうんですから、その発想がおそロシアとしか・・・。
もちろん「俺、皇帝でーす! よろしく☆」なんて感じではなく、偽名を使ってはいました。
しかし、彼は身長2mを超える超巨漢。いくらヨーロッパでもそんな人物はそうそういません。
ましてや17世紀の良好とはいえない栄養状態ですからね。
というわけでバレバレでしたが、家臣たちがうまくフォローし名目上は「お忍び」を通したのでした。
船大工として働いたり、歯科医に学んでみたり
彼はこの遊学を相当楽しみにしていたらしく、あちこちでハッスルした記録が残っています。
中でもオランダでのエピソードが多く、「船大工の一人として働いた」だの、「歯科医に学び、実際に患者の歯を抜いた」だの、当時だけでなく今でも考えにくい体験をたくさんしたようです。
特に歯科医の件はハマってしまったらしく、帰国後も歯を痛がる家臣を見つけては抜いていたとか。KOEEEEEE!
もちろん、ただ行っただけではなくて、当時後進国に分類されていたロシアの諸々を向上させるための大旅行でしたので、さまざまな施設の見学もしていました。
病院や博物館、動物園や植物園、天文台に軍事演習など、一年半ほどかけてありとあらゆるところを訪れ、多方面の知識を身につけています。
こういうのってトップのプライドが高すぎると「あいつらは野蛮人だからそんなの知らなくておk。うちの国サイコー!」みたいになるので、彼に相応の謙虚さというか、現実を正しく認識する観察眼が備わっていたことがわかりますね。
最初の戦争相手は「北方の流星王」
さて、そんな感じでたっぷり楽しみながら勉強してきた彼は、帰国後に大規模な戦争に取り掛かります。「大北方戦争」と呼ばれるスウェーデンとの戦いです。
スウェーデンの情勢が落ち着かないと見たデンマークその他の国と同盟を結び、「北方の流星王」(と日本で称されていることになっている)カール12世とドンパチを始めたのでした。
戦争の経過については以前カール12世の記事で書かせていただいているので、そちらをご覧くださいm(_ _)m
スウェーデン王カール12世「北方の流星王」と呼ばれたカリスマは一発の銃弾に斃れる
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ロシアはその後、スウェーデンよりもポーランドに矛先を向けていくことになります。ポーランドが史上何回も分割されたり占領されている理由の半分以上は、ロシア絡みといっても過言ではありません。マジで。
というかロシア皇帝の正式名称に「(前略)フィンランド・ポーランド(中略)の主」みたいな表現があるんですよね。侵略する気しか見えません、本当にありがとうございました。
そうだ、サンクトペテルブルクを作ろう!
話は変わりまして、ピョートル1世の内政面での最も大きな功績は、何といってもサンクトペテルブルクの建設でしょう。今でこそ「北のヴェネツィア」と美称される都市ですが、当時は歴史はあってもさほど大きな町ではありませんでした。
モスクワでは内陸過ぎて不便だと考えていたピョートル1世は、ネヴァ河という大河が注ぐこの地こそ首都にふさわしいと考え、大規模な工事をさせたのです。
元が水気の多い土地なのでその過程は並のものではなく、その上同時に要塞まで作っていたので、工事中の死者は1万人を超えたとさえ言われています。
その代わりというのもおかしな話ですが、交易にも軍事にも大変便利な場所となったこの町は、歴代の皇帝が整備すると共に人口も増えていきました。それによって度々戦争の火種になったり戦闘が起きたりしたのですが。
その辺も以前取り上げていますので、よろしければどうぞ。
嗚呼、美しきサンクトペテルブルク~世界最悪の戦場がロシアきっての観光都市に
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船舶事故の救助現場で自ら川へ飛び込んだ!?
こんな感じの人だったので、ピョートル1世についてものすごく乱暴にまとめると「好奇心旺盛で戦争に熱心だった皇帝」ということになってしまうのですが、案外死因は人道的?なものでした。
52歳のとき、「ネヴァ河の河口に船が乗り上げてしまった」と聞いて、自ら救助現場に飛び込んだのです。といっても溺死したわけではなく、泌尿器系と思しき感染症が直接の原因だといわれています。だから川にはむやみに飛び込んじゃいけないんですって。
他に救助にあたった人がどうだったのかも気になるところですが、残念ながらその辺の記録はないようです。
彼が急死して大問題になったのが跡継ぎのこと。
というのも、ピョートル1世は息子と折り合いが悪く、しかも既に病死(という名の暗sゲフンゴホン)してしまっていたため、後継者をまだ決めていなかったのでした。「後継者は皇帝が指名すること」っていう法律は作ってたんですけどね。惜しい。
仕方なく妻=皇后が即位してエカチェリーナ1世になったものの、彼ほどの手腕はなく、しばしロシアの進歩はスピードを落とすことになります。
再び盛り上がってくるのは彼の娘・エリザヴェータが帝位について(デキる家臣がバリバリ働いて)からですが、それでもヨーロッパ中枢からすると一歩遅れていました。これを半歩位にしたのが、冒頭で出てきたエカチェリーナ2世です。同じ名前でもえらい違いですね。
ロシア史ってこんな感じで「三歩進んで二歩下がって一歩進みました」みたいな繰り返しなんですよねえ。そりゃ世界最強の大統領がアレコレ意気込むわけです。
でも北方領土は(ry
長月 七紀・記
【参考】
ピョートル1世/wikipedia