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【アイリーン・アドラーと悪女ローラ・モンテス】
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「ああ、愛の巣が無残にも壊されてゆく」
フランス革命からおよそ半世紀。
君主制度に好意的なバイエルン王国にも、革命の風はようやく吹き始めます。
芸術を愛し、お忍びで街を歩き市民と酒を酌み交わす気さくなルートヴィヒ一世は、国民の敬愛を集めていました。
そんな長年にわたって積み上げてきた国民との信頼関係を、ローラとの熱愛が崩してしまったのです。
1848年、ローラを嫌うミュンヘン大学の学生たちが彼女を襲撃しました。
怒ったルートヴィヒ一世は大学を閉鎖、ローラを襲った学生たちを追放しようとします。
しかし、彼らはもはや国王を敬愛する古き良きバイエルン国民ではありません。逆に王宮を取り囲み、命令撤回とローラ追放を要求します。
ここまでくると、流石に恋に溺れたルートヴィヒ一世も目が覚めました。
革命が起ころうとしている。
それは国王にとって悪夢そのものでした。
一方のローラは、ルートヴィヒ一世がきっと自分を守ると信じていました。
が、淡い期待はすぐに打ち砕かれました。
ルートヴィヒ一世がローラ追放令に署名したと知った彼女は、ショックを受けながらも貴重品をまとめ、馬車に乗り込みます。
彼女の背中に集まった群衆は罵声を投げかけ、家になだれ込むと掠奪が始まりました。
「ああ、愛の巣が無残にも壊されてゆく」
群衆の中には、お忍びで愛する女性を見送るルートヴィヒ一世その人もいました。
おいおい、参加してたのかよ、とツッコミたくもなりましょうか。いつの世も、未練たらたらになるのは男性なんですかね。
ともかく群衆に対して激昂し、掠奪をやめるようにルートヴィヒ一世が叫ぶと、彼の変装をみやぶった群衆にもみくちゃにされました。
そして、フラフラになりながら宮殿に帰り着いた国王は、こう思います。
「ローラの正体は、彼女の敵が言うような魔女ではなかったか? 国を傾けるために送り込まれたスパイではなかったか?」
彼はふさぎ込み、王位を返上。
そしてその二十年後、82歳で崩御しました。
捨てられた男の中には自殺する者も!?
一方でローラは国王の愛人から、恋多き女、扇情的なダンサーに戻りました。
彼女は大勢の恋人を作り、そして捨てました。捨てられた中には自殺する者もいたとか。
強烈な性格は舞台の上でも多くの敵を作り、次第に落ちぶれてゆきます。
ヨーロッパ大陸からアメリカ、そしてオーストラリア。生きてゆくために彼女は世界を放浪し、「スパイダーダンス」という踊りを披露しました。
しかし時は彼女の美貌を奪い始めます。彼女は四半世紀登っていた舞台を降りました。
最期の日々を、彼女は慈善活動を行い過ごしました。
そして1861年、39歳のローラは肺炎で死亡。
死の前には梅毒の症状も出ていたとされます。
美しく奔放に生きた彼女は、ブルックリンの墓地に葬られています。
やりたい放題に振る舞ったローラ・モンテス。多くの敵を作り、嫌われたものの、そのわがままながらも強気な振る舞いには、不思議な魅力が宿っています。
模範的な淑女が求められたこの時代、己の才覚と肉体でのしあがり、社交界を縦横に渡り歩いた彼女からは強いバイタリティを感じます。
ホームズがきっと懲らしめるんだよ! という引っかけ
話をローラからアイリーンに戻しましょう。
『ボヘミアの醜聞』を読んだ人たちは、写真をネタに国王を脅迫するアイリーン・アドラーを手強い悪女と感じたことでしょう。
そして華やかな歌手としての経歴、美貌、そして国王が語る「鉄の心を持つ女」という特徴から、ローラを連想したことでしょう。
そしてこう思った者も多かったに違い有りません。
「アイリーンというこの女も、きっとローラ・モンテスみたいな妖婦なんだな。ホームズさん、この悪女を懲らしめてやってください!」
これこそが、ドイルの仕掛けた罠です。
読者をミスリードするのは、ミステリのテクニックです。
アイリーンが、かのローラのような悪女で女山師ならば、きっとホームズはその不埒な女を懲らしめるに違いない、一泡ふかせるだろうと期待するわけです。
ところが本作では、アイリーンはまんまとホームズを出し抜き、国王を脅迫することはあっさりとあきらめ、結婚相手とともにアメリカへと渡ってしまいます。
しかもホームズはアイリーンの知力と度胸に感心し、「あの女性」と呼ぶようにまでなるのです。
ローラのような寵姫とアイリーンを重ねていた読者には衝撃的な展開であったことでしょう。
ヴィクトリア朝のお堅い価値観を破る破天荒な悪女が、まんまと逃げおおせるわけですから、これはもう革新的な展開です。
本作で用いられるトリックはそこまで複雑ではありませんが、構造的には「騙し」に満ちているわけです。
「いやあ、そうは言うけどねえ。私は世間の下世話な覗き趣味に迎合した小説ではなくて、骨太な人間賛歌とか、歴史ロマンを書きたいわけだよ」
ドイル本人はそうぼやきそうです。しかし、彼は世間のニーズを答え、それを逆手に取り、魅力的なプロットとキャラクターを生み出すわけですから、もうこれは天性の作家ではないでしょうか。
シャーロック・ホームズシリーズ誕生から130周年が経過しました。
それでもなお、アイリーン・アドラーというヒロインが色褪せないのは、コナン・ドイルが当時の世相を反映しつつ、ヴィクトリア朝の規範から飛び出したキャラクターを生み出したからこそ。
アイリーン・アドラーというヒロインは、今後も不朽の輝きを放ち続けることでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
石井美樹子『図説 ヨーロッパ 宮廷の愛人たち (ふくろうの本/世界の文化)』(→amazon)
デイヴィッド・スチュアート・デイヴィーズ/日暮雅通『シャーロック・ホームズ大図鑑』(→amazon)
ブレンダ・ラルフ・ルイス/樺山紘一/中村佐千江『ダークヒストリー2 図説ヨーロッパ王室史』(→amazon)