魅力的な人物を数多く生み出したシェイクスピア。
その中でも悪役部門のチャンピオンに輝くのは英国王・リチャード3世でしょう。
性格は、貪欲にして冷酷。
外見も醜悪に描かれており、脊髄が曲がって脚をひきずった、ヒキガエルのような男です。
実際、その悪行も留まるところを知らず、幼い甥を含めて親族を手に掛け、そして最期は誰からも見捨てられ、戦場で惨殺される――。
まるで悪魔のようであり、かつ道化のようでもあり、狂気に取り憑かれたようにも見える。
あまりにぶっ飛んでいて、魅力的ですらあります。
しかし、この意見には反論もあるようで……。
「シェイクスピアの流布したリチャード3世の像は間違っています! あれは創作です!」
彼を愛する歴史家はそう主張してきたのです。
中心にいたのは「リチャード三世協会」。
その一員であるフィリッパ・ラングリーは、駐車場の下に埋められた王の遺骸を発掘するプロジェクトに挑み、2012年8月にその試みは実りました。
王と自分探しに挑む、そんなラングリーの姿を描いた映画『ロスト・キング』も2023年の秋に公開予定となっています。
本稿では、史実のリチャード3世を振り返ってみましょう。
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遺骨発見で覆る「悪魔の子」真の姿
1485年、ボズワースの戦い――。
味方に裏切られたリチャード3世に残された道は、少数の兵士を率いてヘンリー・チューダーの軍勢に突撃をかけることでした。
※上記YouTubeは、BBCドラマ『ホロウ・クラウン』
しかしこの突撃は、虚しい賭けでした。
リチャード3世はヘンリーの旗手を討ち取ったものの、すぐに敵に取り囲まれます。
彼は、戦場で討ち死にを遂げた最後のイングランド国王となったのでした。
享年32。
遺骸は全裸にされ、英国レスターへ運ばれました。
そしてその遺骸がどうなったのか?
残念なことにそのまま忘れ去られてしまい、哀しい骸(むくろ)が発見されたのは2012年8月のこと。
ごく最近のことで、彼の埋葬場所は駐車場になっていました。
掘り出された遺骨は、悲惨な死を物語っておりました。
兜をはぎ取られ、刃の付いた剣やハルバードで何度も後頭部を攻撃され、そのうち二カ所が脳に到達。
敵はリチャードを落馬させ、頭部を集中的に攻撃したものと思われます。
脊椎側彎症の跡も発見されました。
ただし、シェイクスピアが悪意をこめて描くほど強い症状ではなく、甲冑や衣服で隠せる程度であったとのことです。
専門家により、顔と声も復元されました。
蘇ったのは、当時描かれた肖像画とよく似た姿。
シェイクスピアが「ヒキガエル」と喩えたような、醜い容貌からはほど遠い青年像です。
リチャード3世の名誉回復を求める「リチャード3世財団」は喜びました。
「やっぱり彼の悪評は作られていたんです! 本当はハンサムな青年だったんですよ!」
というワケです。
チューダー朝のプロパガンダ
そもそも何故、リチャード3世はここまで悪人とされてしまったのでしょうか。
答えはチューダー朝のプロパガンダにあります。
リチャード3世は、兄エドワード4世の幼い子であるエドワード5世をさしおいて、王位につきました。
しかしこれは野心ゆえの行動とは言い切れません。
エドワード4世は身分違いの結婚をして周囲の反感を買い、贅沢な暮らしと漁色(女遊び)に溺れていました。
そんな無理が祟ったのでしょう。彼は42才の若さで崩御してしまい、王国の乱れはどうにもなりませんでした。
わずか12才の幼君が、とても支え切れる状況ではありません。
リチャード3世が幼い甥兄弟をロンドン塔に置いて自ら王になったとしても、ある程度はその動機を擁護できるでしょう。
「あんな子供が王では、国をまとめきれない。ロンドン塔は牢獄としての一面を持つが、そもそもは王宮の一部でもあるのだし……」
まぁ、少々苦しい弁解ではありますね。
しかし、少なくともリチャード3世は、彼を倒したヘンリー・チューダー(のちのヘンリー七世)よりは王として正統性がありました。
ヘンリーの祖父オウエンは、イングランド王ヘンリー五世の未亡人であるキャサリン・オブ・ヴァロワの再婚相手。
如才なく王位継承の争いに絡んではきたものの、元をたどれば正統性は極めて薄いのです。
そこをつっこまれると大変困るチューダー朝としては、敗死したリチャード3世を極悪非道の暴君として、それを倒した自分たちには正義があったとして喧伝するのが手っ取り早いわけです。
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