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【フランシス・ドレーク】
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サン・ファン・デ・ウルアで予期せぬ戦闘
ジョンの船団にとって四回目の航海は1567年10月から始まりました。
この航海もトラブルが続きますが、長いのでダイジェストにしますと……。
・途中で決闘騒ぎが起きて、ジョンが大岡裁きのような名采配をしたり
・黒人集めが難航したため現地での戦争の片棒を担ぐことになり、勝ったはいいものの味方の黒人による食人が始まって「こんなんじゃそのうち奴隷にする黒人がいなくなるのでは」と別方向の心配をしたり
・リオ・デ・ラ・アチャに着いたら着いたで、総督がフランシスの船に発砲し、お返しにフランシスの船から総督の屋敷へ砲弾が打ち込まれ、一時はイギリス側が町を占拠したり
・帰り道で立て続けに嵐に見舞われ、修理と補給のために立ち寄ったメキシコ湾の港サン・ファン・デ・ウルアで、メキシコ副王率いるスペイン艦隊に遭遇して戦闘となり、火船をジーザス・オブ・リューベックにぶち込まれて置いていかざるを得なくなったり
なかなかハードな局面に遭遇、特に最後のサン・ファン・デ・ウルアの一件は深刻だったようです。
たまたま港の出入り口の方に船を泊めていたフランシスは逃げられましたが、ジョンは補給もろくにできないまま200人もの船員を抱えて脱出せざるを得ず、途中で100人を置いていくことに……。
フランシスも「ジョンはもう助からないだろう」と諦めていたそうですから、状況の激しさがうかがえます。
結果、ジョンの船はメキシコ湾を脱してからも食糧不足や病に苦しむ者が多発し、最終的にたった15人しか生きて帰れなかったとか。
また、この間にジョンの船団に関するニュースがイングランド国内に流れ、スペインへの憎悪がかきたてられていきます。
女王から預かったジーザス・オブ・リューベックを連れ帰れなかったことで責められてもおかしくない状況。
しかし、ジョンやフランシスが持ち帰った金銀財宝が1万3500ポンドもの大金になったことで、お目溢ししてもらえたようです。
今も昔も、何事もカネで解決するんですな。
ちなみに1万3500ポンドにはどれほどの価値があったのか?
というと、現在の英ポンドとは大きく異なり、当時の物価ですと、1万4000人が1年食べる小麦が買える程度の値段だったようです。
後述するアルマダの海戦におけるスペイン軍の主戦力が1万8000人とされています。
つまりは
「大船団の兵士たちを一年食べさせられるくらいの食料になるお金を、ジョンやフランシスが一度の航海で稼いだ」
というと、いかに大きな金額だったか、ご理解いただけるかもしれません。
船の場合は兵士の他に船員がいますので多少ズレますが……まぁイメージということで。
自前の艦隊を準備
フランシスやジョンが逃げてくるまでの間、イギリスとスペインの相互感情は最悪の状況となっていました。
両国の近辺で活動していた海賊たちにより、財産を巡るトラブルが多発していたためです。
他にも国内の問題は多く、この時点では戦争できる状態ではありません。
ジョンは帰国した後もできるだけ平和に商売をしたいと考えていたようですが、国際事情的に見て断念。
海軍はロンドンを流れるテムズ川の河口を基地としており、プリマスには艦隊がなかったので、ジョンは地元と商売を守るために自前の艦隊を作り始めます。
あれだけボロボロになって、再起できる根性と財産があるのがスゴイですね。
しかも彼はスペイン語に堪能だったことを利用して、メアリー・スチュアートやスペイン大使が絡んだエリザベス1世の暗殺計画を察知し、未然に防ぐことに成功。
さらに妻の父であるベンジャミン・ゴンソンが海軍関係者だったことから、海軍や政治家とのツテを得て大出世していきました。
一方フランシスは、帰国した半年後の1569年7月に結婚します。
相手は、航海で一緒に行動していたハリー・ニューマンの妹メアリー。
かといって家庭に落ち着いたわけではなく、ジョンにもらったスワンという名の小型船で再び大西洋を超え、パナマ近辺でスペインが新大陸で集めた金銀の保管場所や、総督の屋敷の場所を調べ上げます。
そして”ポート・フェザント”と名付けた小さな入江にいくらかの物資を置き、次回来たときの拠点に定め、帰国すると、この情報をジョンに報告した上で準備を進めるのです。
1572年5月24日、フランシスは弟のジョンとジョーゼフを連れて、たった二隻の船と食料・武器・物資と船員と共に出港しました。
このとき彼は「パナマにあるスペインのお宝を奪いに行くぞ!」と言って船員たちを鼓舞し、大いに士気を上げたそうです。
まさに”一攫千金”ですね。
残念ながらポート・フェザントの物資はスペイン人に奪われていましたが、そのことをかつての同僚ジョン・ギャレットがメモにして残してくれたため、フランシスは状況を把握。
周辺を調べた結果、すぐに戦闘になることはなさそうだと判断し、積んできた物資を使って船を三隻組み立て、襲撃の準備を進めます。
さらにその間、知人のジェームズ・ランスが船でこの地を訪れ、共に行動することとなりました。
こうして100人を超えたフランシスの船団――7月20日にポート・フェザントを出発すると、道中で船員をよりすぐった上で作戦説明や戦闘訓練をし、29日未明、スペインの拠点であるノンブレ・デ・ディオスへ襲撃をしかけました。
結果は成功……でしたが、フランシスが傷を負ってひどく出血したため撤退せざるを得ない、というなんとも悔しい結果に終わります。
ジェームズ・ランスはスペイン側の報復を懸念してここで別れましたが、予期せぬ戦力を得られていたのですから、フランシスに不満はなかったでしょう。
スペインの植民地を襲い続ける
療養の後、フランシスは8月7日にカルタヘナという町を次の標的に定め、改めて出発。
8月13日にカルタヘナ港に到着した数隻の船を襲撃し、自分の船団に加えました。
その船を使って、9月5日から周辺のスペイン人居住地で積荷や食料を奪い続けます。
その代わり……と言っていいのかどうかビミョーですが、帰路につく際は捕虜や船を解放していたとか。
かつて黒人同士の戦闘で凄まじい光景を見ていたことから「自分はあんな奴らとは違う」と思いたくてやったのかもしれませんね。
また、この航海では弟・ジョンが戦死する他、同行していたもう一人の弟ジョーゼフと船員9名が病死など、失ったものも多々ありました。
そこから気を取り直し、1573年2月から3月にかけて複数箇所の町で略奪を行い、多額の利益を上げています。
不屈の精神こそ、フランシスの最大の武器だったかもしれません。
フランシスは1573年8月、プリマスへ堂々と寄港します。
エリザベス1世はまだ戦争に至る時期ではないと判断し、国内の戦意をなんとか抑えようとしているところ。
スペイン大使からも「ヤツを死刑にするか、こちらに引き渡すか選んでいただきたい!」という、当然のクレームが入っていました。
これを女王が密かに知らせたのか、友人知人の計らいによるものか、フランシスはこの後三年ほど姿をくらませています。
その後、1577年春にエリザベス1世と謁見したときに
「スペインへの報復は可能か?」
と尋ねられたフランシスは
「フェリペ2世を攻撃することは無理ですが、植民地を襲って苦しめることはできます」
と答えます。
これに対し、女王はイングランドの原状などを説明した上で、
「もしも失敗したときは、あなたを見捨てる他ありません。それでもやってくれますか」
と再度問いました。
女王が腹の中を明かしてくれたことに感激したフランシスは、より一層の忠誠を誓って襲撃の準備を進めたそうです。
内容は実にえげつないんですが、お互いへの信頼関係がカッコいいですね。
そして天候を待って同年12月に出港したフランシス艦隊は、大西洋を南へぐるっと回って太平洋に入り、スペインの植民地を襲い続けるという壮大な計画を実行に移します。
何があろうと諦めない
航海は、南米大陸南端のマゼラン海峡を通るものでした。
しかし、発見者のフェルディナンド・マゼランらが通った後、この海峡の位置はわからなくなっており、太平洋に出るルートも確立されていない状況。
植民地襲撃だけでも相当な冒険ですが、ルートを再発見せねばならないのもかなりの博打ですよね。
しかも「失敗したら見捨てる」と女王直々に言われているのですから、並の人であればプレッシャーやストレスで何も実行できずに終わりそうです。
実際、航海は過酷を極めました。道中で様々な困難に見舞われても、フランシスは不撓不屈の闘志を発揮します。
・嵐に遭って積荷を捨てざるを得なくなっても
・ゴーストタウンに着いてしまって収穫がなくても
・裏切り者が出て処刑せざるを得なくなっても
船員たちを鼓舞して、ひとつひとつ事態を解決していきました。
そしてついにマゼラン海峡を再発見すると、南米大陸西岸沖の北上に成功。
後年「ドレーク海峡」と呼ばれることになる別の海峡を、その道中に発見しています。まさしく怪我の功名ですね。
太平洋側へ出たフランシス一行は、さっそく現代のチリ沿岸にあったスペイン植民地を複数襲撃しました。
中には、当時のスペインにとって最も重要だったポトシ銀山の銀を積み出す港・アリカも含まれており、
「すでに銀を積んだ船がカヤオに向かっている」
という情報を手に入れると、急いでカヤオへ向かいます。
カヤオはペルー副王のいる大都市であり、ここの襲撃に成功すれば、フェリペ2世の顔にべったりと泥を塗ることができます。
結果として銀を奪うことには失敗するのですが、スペイン側に恥をかかせることには成功しました。
その後は少し離れた海域でスペイン船を捕獲し、大きなエメラルドや金銀を大量に獲得し、収穫に満足したフランシスは、この海域を離れて太平洋を渡ろうと考えました。
道中でメキシコの植民地も襲い、それがスペイン本国に伝えられ、またしてもイングランドへのクレームになっています。
エリザベス1世にしてみれば「戦果は上々!」の報告にしかならなかったでしょうね。笑いを堪えるのも大変そうです。
その頃フランシスは、苦難とはまた違うアクシデントに遭遇していました。
奴隷貿易の時代というと、売り先の白人植民地はともかく、南北アメリカや東南アジアの現地住民との軋轢が想像されますよね。
しかし、フランシス一行の場合はアメリカ西海岸やインドネシアの一部などで歓迎されたそうなのです。
白人を神と勘違いして歓迎した部族もいれば、ポルトガル人などに反感を持つがゆえにイギリス人を歓迎する部族もおり、その理由は様々でした。
「敵の敵は味方」というのは古今東西どこでも変わらないようですね。
フランシスが”基本的には”人殺しを避けていたことも、関係あるかもしれません。
こうしてスペインの植民地を暴れ回ったフランシス艦隊。
帰路は東南アジアから喜望峰を経由して北上し、プリマスへ帰りつきました。
1580年9月26日のことです。
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