フランシス・ドレーク

フランシス・ドレーク/wikipediaより引用

イギリス

英国海軍の英雄フランシス・ドレーク~スペインから悪魔と恐れられた戦い方とは

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海賊、ナイトになる

帰港直後、フランシスは女王に帰国を報告する手紙を書いて急使に持たせると、宮廷ではスペインからの抗議にどのような対処をすべきか議論しているところでした。

エリザベス1世はフランシスに「戦利品の見本を持ってただちに来るように」と伝えると、フランシスは命に従ってロンドンへ参上。

するとスペイン大使がさすがに抗議をしました。

「なぜあの海賊を捕らえないのですか!」

「まだ調べてもいないのに、そんな乱暴なことおっしゃらないで」

のらりくらりとかわしています。

抗議している側とすれば、これほど腹の立つこともないでしょう。

実際のところ、エリザベス1世はフランシスを罰する気など最初からなかったと思われます。

謁見したフランシスに対し、航海のルートや戦利品の説明をさせただけで、処罰云々の話をしなかったからです。

その上、戦利品のうち1万ポンドをフランシス、同じく1万ポンドを部下に配分することを許し、その残りをロンドン塔へ収めさせました。

全体の利益が60万ポンドだったとされているため、この程度は全く問題にならないどころか、取り分としては安すぎるくらいです。

これによってイングランドは対外負債の精算や戦費の調達、レバントという貿易会社への投資などを可能にしました。

そして1581年4月4日、エリザベス1世がフランシスの船ゴールデン・ハインドを視察に訪れます。

このとき女王はフランシスの肩に剣を当て「スペイン王は彼の首を欲しがっている」とつぶやき、ナイトに叙任したそうで。

フランス使節が同行していたため、国際的に

「イングランドはフランシス・ドレークを罰さないし、これからも重用する」

と示したことになります。

随分と大胆なケンカの売り方で、この日スペイン大使は招かれていなかったものの、耳に入るのは時間の問題。

エリザベス1世は既に、時期を見てスペインと戦うことを視野に入れていたのでしょう。実際にはもう少し先になりましたが。

 

政治家と海賊を兼業

フランシスはその後プリマス市長や海軍の造船監督官に任じられ、さらには下院議員にも選ばれて多忙な日々を送ります。

一方で、私生活では1582年1月に妻メアリーと死別。

別の女性と再婚したものの、子供には恵まれませんでした。

まあ、この後も海に出ている時期が長いので、子作りしている時間もあんまりなかったでしょうね。

次の航海は1585年のこと。

イングランドの北米植民計画が同時に計画されており、その煽りを受けてフランシスの出港が遅れるなど、幸先の悪いスタートでした。

9月14日に出港し、途中で嵐や熱病に見舞われながらも、イスパニョーラ島サント・ドミンゴ(現在のドミニカ)を占拠します。

厳重な防備の島で、フランシスは現地の元解放奴隷に渡りをつけて協力してもらいながら、襲撃を成功させたそうです。

このときサント・ドミンゴ側では、総督の姪の結婚を祝って大宴会が開かれていたそうですから、なんとも嫌らしいタイミングを狙ったものです。

フランシスはカノン砲250門(!)や多額の賠償金を得た後、ガレー船の漕手にされていた奴隷たちを解放し、自分の船団で連れ帰りました。

ガレー船の漕ぎ手は、鎖で繋がれて船の動力にされるという過酷な環境でしたので、それを解放することは当人たちの好感を買いつつ、スペイン側の労働力を削り、フランシスは新たな労働力を得られる一石三鳥の方法。

自分が船の下働きから成り上がってきただけあって、フランシスはそういったことにも目端が利いたのでしょうね。

天候の影響などによって、この航海では大きな収穫は得られませんでしたが、スペインへ打撃を与えることには成功しました。

当然、スペインとしてはイングランドへの反感を強め、密かに海戦の準備を始めます。

これにはエリザベス1世も少々がっかりしたようで、フランシスを一時遠ざけました。

しかしフランシスは「スペイン艦隊が準備を終える前に叩くべきです!」と主張し、女王の了解を取り付けるのです。

1586年4月に再びプリマスを出港。

目的はスペイン軍艦が本隊に合流するのを防ぐこと、そして植民地や交易先から帰ってくる船の捕獲でした。

途中で「カディス港にスペインの船が多数おり、出港準備をしている」と聞くと、さっそく襲撃へ。

問答無用で砲撃をぶっ放し、略奪を強行すると、用が済んだスペイン船には火を放つなど暴れまくります。

当時のポルトガルはスペインに併合されていたため、イベリア半島の西岸各地にも襲いかかり、スペイン艦隊へ補給されるであろう食料や物資の供給元に打撃を与えました。

かなり積極的な兵糧攻めですね。

そして「インドから帰ってくるスペインの大型船がアゾレス諸島近辺にやってくる」という情報を手に入れると、急いでそちらへ向かいました。

 

「スペイン王の顎髭を焦がしただけ」

アゾレス諸島は大西洋に浮かぶ小さな島々であり、フランシスからすれば慣れた状況といえます。

襲撃した大型船には香料や絹織物、陶磁器、宝石、黄金といった財宝と実用品がたっぷり積み込まれており、11万4000ポンドもの収穫を得ました。

ときのスペイン王と同じ名前の船からの略奪に成功しており、フランシスや部下たちの気分を大いに上げたことでしょう。

もちろん、やられたスペイン側は真逆の感情を爆発させたはずです。

フランシスはこの航海から凱旋した後、「スペイン王の顎髭を焦がしただけ」と言っていたそうなので、満足してはいなさそうですが。

ちなみにこのセリフは、かつてレパントの海戦で敗北したオスマン帝国のスルタンが

「余のひげを焦がされただけ」

と言っていたのを引用したものとされています。

ちなみにそのスルタンは同時に

「余がキプロスを攻め取ったときは、奴らの片腕を切り落とした」

とも自賛していました。

フランシスが後者を知っていたかどうかはわかりませんが、スペイン海軍がそれなりの警戒や対策をしてくるであろうことはわかっていたでしょうね。

しかし、スペインでは別の問題が発生していました。

フェリペ2世が頼みにしていた名だたる総督たちが世を去っていたのです。

いかに良い船や兵力を揃えたところで、指揮官が有能でなければ戦争には勝てません。

そこでフェリペ2世が登用したのが、メディナ・シドニャという”陸軍の”将軍でした。船酔いがひどい体質だったそうですが……もしかしてイジメじゃないよね???

もちろんメディナは辞退しようとするも、フェリペ2世が許してくれません。

実に気の毒というか、フェリペ2世は作戦についてまで事細かにメディナに指示していたといいますから、どう考えても罰ゲーム的なやつで……。

当時、ネーデルラント(現代のオランダ近辺)はスペインの領地になっており、そこにも多くの船団がいたので、彼らとの合流を厳命したのでした。

海上の戦いを避け、一気に上陸し勝利を狙いたかったようです。

これを知ったエリザベス1世も早速動きます。

「実際の指揮はともかく、建前上は名門貴族の提督を据えなければならない」

そう考えて海軍長官のチャールズ・ハワードにその任を与えるのです。

フランシスは自分がトップになれないことを残念がったようですが、チャールズは艦船に詳しく、いとこのジョンとも親しかったため、気を取り直して協力したそうです。

また、女王は戦場での行動についてはチャールズやフランシスたちに一任していました。

君主の方針もイングランドとスペインでは正反対だったといえましょう。

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