モンゴル帝国のルーシ侵入 photo by Bkkbrad /wikipediaより引用

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「キエフの戦い」と「ルーシー侵攻」モンゴルがキエフ大公国へ攻め込んだ

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モンゴル帝国が、キエフ大公国(現在のロシア・ウクライナなど)に攻め込んだ”キエフの戦い”。

1240年(日本は鎌倉時代・仁治元年)12月6日に終結しております。

本日注目の「バクダードの戦い(1258年)」とあわせて見ておくと効果的ですので、一緒に押さえておきましょう。

一言でまとめると
「うわモンゴルつよぃ」
なんですが……。

元寇(1274年・1281年)で攻め込んでくる前のことだけに、日本にとっても決して他人事ではないんですよね。

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「ルーシ」の首都キエフが囲まれる

国内を統一し、南下して中国を支配下に収めたモンゴルは、その次に中央アジア方面を狙いました。
アフガニスタンとかあの辺です。

そのままシルクロードを西方へ向かうような形で、次はロシアに入ります。

といっても当時はまだロシア帝国ではなく、キエフ大公国という国でした。現在のロシア・ウクライナ・ベラルーシの大元になった国で、正式名称は「ルーシ」らしいですがいろいろな大人の事情により、日本ではキエフ大公国と呼んでいることが多いようです。

この当時はいくつかの公国に分裂していて、とても強大な敵に立ち向かえる状況ではありませんでした。一応協力しようとはしていたんですが、相手が悪すぎたのです。

一度は追い返すことに成功しました。

が、再びモンゴル軍がより大規模な軍勢でやってくると、もはや手に負えず、各公国の首都は焼き払われ、ある国では大公一家が惨殺され、また別の国は大公自ら勇敢に戦いましたがあえなく戦死、といったように次々とモンゴルの支配下に置かれていきます。

 

ナポレオンもかなわない冬将軍もモンゴルには効かず

そしてついに大公国全体の首都・キエフ(現在はウクライナ領)を包囲し、この地域の仕上げの戦いが起こりました。

9月5日に包囲を始めて12月6日に陥落ですから、かなりの遠征軍であることを考えれば早いほうでしょう。

ロシアの防衛の要・冬将軍も、ユーラシアきっての厳寒地帯出身であるモンゴル兵たちには効かなかったようです。

ちなみに現在のモンゴル首都・ウランバートルは真夏は40℃、真冬はマイナス30℃程度になるそうです。

ロシアも決して温暖とは言いがたい気候ですが、意外に?一番寒いのはアジア寄りの地域ですから、総合的に見てモンゴルの人のほうが寒さに強いのかもしれませんね。

 

「タタールのくびき」でヨーロッパ壊滅寸前

キエフ陥落後はモンゴル帝国の中のキプチャク・ハン国によって支配される時代が続きました。

支配された側からの通称は「タタールのくびき」。
くびきとは「束縛するもの」という意味で、元は牛や馬に車を引かせるときに使うものです。文字通り馬車馬の如く働かされたもしくは束縛されていたということでしょう。

この一連の戦いで何度も虐殺が起きており、戦死者と合わせて50万人が犠牲になったといいます。
現代日本で例えると、姫路市など一つの”市”が丸ごとすっからかんになるくらいです。もう何をコメントすればいいのやらわかりません。

しかも、モンゴルの勢いはこれで終わりませんでした。
さらに西へ向かい、東欧地域へ侵入します。

現在のブルガリアあたりで地元の人々により頑強に抵抗され、一度撤退を余儀なくされましたが、チンギス・ハーンの死後再び西方遠征を始めました。

可哀相に、再度キエフをはじめとしたルーシ諸国は蹂躙され、生き残りはポーランドやハンガリーなどの東欧諸国へ逃げ込みます。
これを追ってモンゴル軍も西方へ向かいました。

そしてモンゴル軍が現在のポーランド領内に入ると、さすがのヨーロッパ諸国も団結して対抗しようとします。
現地のポーランド王国、お隣神聖ローマ帝国、カトリックの各騎士団などが連合したが見事にボロ負け\(^o^)/

ワールシュタットの戦いと呼んでいました。
今はリーグニッツの戦いと呼ぶほうが多いようですね。何でかというと、ドイツ語でワールシュタット(wahlstatt)とは「死体の山」を意味するからです。

つまりそのものズバリの悲惨な状態になった戦いだというわけで。
ウィキペディア先生でも
「連合軍の損害:死者 大 多 数」
と書かれています。恐ろしいにも程がある……。

 

本国からサプライズ「皇帝死んじゃった」

南のハンガリー王国にも侵入し、ここでも勝利を収めたモンゴル軍。

次の標的は死に体の東ローマ帝国か、神聖ローマ帝国か?
誰もが自分のところには来ないでくれと祈っていたそのとき、モンゴル本国からサプライズ過ぎるニュースが届きます。

「皇帝死んじゃった」(超訳)

当然各方面に攻め込んでいた一族は大慌て。
後継者が決まっていなかったからです。

以前チンギス・ハーンが亡くなったときは遺言があったので特に大きな問題はありませんでしたが、今度は正真正銘突然の悲報でしたから、当然後のことをどうするか全く決まっていませんでした。

となると、ユーラシア大陸の約3/4を占めようとしていたこの帝国、次は一体誰のものになるのでしょう?
どうやったら手に入れられるでしょう?

多くの方が連想された通り、一刻も早く本国に戻って自身の正当化を計ると同時に、他の候補者を追い落とさなくてはなりませんよね。

というわけで、各方面のモンゴル軍は我先にと母国へ帰還します。

ヨーロッパ側から見れば、ビビリまくってたところで突然敵が帰ってくれたわけですあから、神の恩寵にも見えたでしょうね。日本でいうなら「神風が元寇を退けてくれた」のと同じような感覚でしょうか。

偶然が歴史を大きく動かすことは珍しくありませんが、こういう出来事を見ると「神様ってホントにいるんじゃね?」なんて思ってしまいますね。

 

東西交易のメリットとペストのデメリット

ちなみにモンゴル軍が去ったからといって、ヨーロッパが完全に平和になったわけではありません。

以前からユーラシア大陸では東西間の交易が行われていましたが、モンゴル帝国の支配によってより盛んになったことで、デカすぎる弊害が生まれてしまったのです。

それが世界史上の大事件のひとつ、ペスト(黒死病)の大流行でした。

中世ヨーロッパにおけるペストの伝播/wikipediaより引用

ペストはそれまでの時代にも何回かヨーロッパで流行ったことがあります。

しかし、このときの流行は最大規模。
当時のヨーロッパの人口1/3が亡くなったといわれているほどです。

それほど強力な細菌がいきなりやってきた原因が、東西間交易の荷物に紛れ込んだネズミ、もしくは毛皮商品についていたノミが媒介になったという説があるのです。
なんて嬉しくない置き土産なんだ。

 

十字軍規模の大連合軍ができていたかも?

ただ、もしこのタイミングでペストが流行していなかったら?
ヨーロッパ諸国がいずれモンゴルへの報復戦争をしていたかもしれないですよね。

これだけやられていて、しかも敵が内紛を起こしているとなれば、復讐には絶好の機会です。

いつも揉め事ばかりのヨーロッパですが、共通の敵がいるときの団結力は恐ろしいもの。
ローマ教皇が音頭を取れば対面も整いますし、十字軍規模の大連合軍ができていたかもしれません。

既に第4回十字軍(お金がないからって同じキリスト教徒の東ローマ帝国をぶっ飛ばしたアレ)の後ですから、名誉挽回のために「モンゴルはけしからんイスラム教徒の仲間だからぶっ潰そうね!」とか何とか言えばこれまた無問題になりそうですし。

となると、ペストほどの死者数にはならないにしろ双方にかなりの人的損害が出て、その後の歴史が大きく変わっていた可能性は高い。

どれが最善かということは一概に言えませんけども。
寿命以外でバタバタ死ぬなんてこと良くないに決まってますし。

ホント、恐ろしい時代です。

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長月 七紀・記

【参考】
モンゴルのルーシ侵攻/wikipedia

 



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