格闘技やスポーツなどで、世界的選手のイベントがあれば、普段、興味がなくても『テレビでやるなら見たいな』と思っちゃう。
歴史でも、そういう話はありまして。
1258年(日本では鎌倉時代・正嘉二年)2月10日は、バグダードの戦いが終結した日です。
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ユーラシア大陸ほとんど
現在もイラクの首都として有名なあのバグダード。
当時はアッバース朝というイスラム国家の首都に、モンゴル帝国が攻め込みました。
まずはアッパーズ朝の最大版図を確認しておきますと……。
デカイです。
容赦のない大きさです。
と言っても、もう一方のモンゴルも半端じゃないサイズであることは皆さんご存知でしょう。
最大で、ざっと、こんな感じになります。
こんだけ大きな国同士の戦争ですから
『さぞかし長引いたことだろう……』
と思った方もいらっしゃるでしょう。
というか、フツーはそう思いますよね。
しかし、この戦争、わずか二週間足らずで終わっています。
さすがに【関ヶ原の戦い】ほど早くはありません。
されど早い。
一体、何がどうしてそうなったのでしょうか。
衰退しつつあるアッバース朝にモンゴル軍が攻め込んだ
アッバース朝はムハンマドの叔父の血筋をカリフ(王様)とする、大変歴史のある王朝でした。
最大版図でいうと、東は現在の中央アジアやインドの手前あたり、西はスペインやポルトガルの大部分を支配していたくらいです。
しかし、どんな大国にも衰退は訪れます。
地方政権の権力が大きくなるにつれ、中央政府の力は弱まっていきました。
なんだか江戸幕府と朝廷のようですが、アッバース朝の場合はそんなタイミングでモンゴル帝国が攻めてきたのですから、たまったものではありません。
このときのモンゴル軍は、モンゴル人だけでなくキリスト教徒の部隊もいました。
ものすごく単純に言うと、多国籍かつ他宗教の軍だったんですね。
つまりヨーロッパ方面をある程度攻略した後なわけで、向かうところ敵なしという状態。
そこに関しての詳細は「キエフの戦い」をご覧いただけると幸いです。
「キエフの戦い」と「ルーシー侵攻」モンゴルがキエフ大公国へ攻め込んだ
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「言 っ た な ?」(・<>・)
かようにイケイケのモンゴル軍。
戦闘をいきなりおっぱじめる前に、バグダードへ
「降伏したほうが身のためだよ?^^」(※イメージです)
という使いを出します。
が、アッバース朝は上記の通り、ムハンマドの正当な後継者を自認する王朝です。新興国かつ異教のモンゴルに、そう簡単に屈するわけには行きません。
そのため、ときのカリフ・ムスタアスィムは
「攻撃すれば? 天罰当たると思うけど^^」(※イメージです)
という答えを返します。
これを受けたモンゴル軍は
「言 っ た な ?」(・<>・)
とばかりに、さっそくアッバース朝攻略にかかりました。
バグダードを直接攻撃する前に、モンゴル軍はまずイスラム教の宗派の一つ・ニザール派を降伏させました。
イラン高原周辺を地盤として、多くの砦や城塞を築いていた勢力です。
ここが降伏したということは、アッバース朝の防御力が大幅に削がれたことになります。
さらにモンゴル軍は、チグリス川(古代文明が生まれたあの川)で軍を分け、堤防を築きました。
もうイヤな予感がしますね。
アッバース軍を挟撃した上に、水攻めを行ったのです。
チグリスは血で赤く染まり、書物のインクで黒く
疲れきったところに押し寄せた濁流は、容赦なくアッバースの兵の命を奪いました。
生き残ったものも、モンゴル軍によってとどめを刺され、ほぼ全滅したといわれています。
本丸にあたるバグダードは、攻城兵器によってたった6日間で城壁を破られてしまいました。
ここに至って彼我の戦力さを思い知ったムスタアスィムは、モンゴル軍の指揮官でチンギス・カンの孫であるフレグに交渉を持ちかけましたが、時既に遅し。
交渉すら拒絶したフレグは、容赦なくバグダードで暴虐の限りを尽くしました。
当時のバグダードは数十万~100万ほどの大都市になっていたのですが、そのほとんどが虐殺されたといわれています。
この時代に写真がなくて本当に良かったと言わざるを得ません。
当然ムスタアスィムとその一族もただでは済まず、処刑されています。
一人だけ生き残った息子がモンゴルに送られたそうですが、その後どうなったのやら……。
また、「知恵の館」と呼ばれていた大図書館や宮殿、病院なども略奪・破壊の対象となり、これ以前に存在していた貴重な書物などが失われてしまいました。
奇跡的に生き残った人は、「チグリス川は虐殺された人々の血で赤く染まった後、捨てられた書物のインクで黒くなった」と表現したそうです。
想像を絶するとはまさにこのことですね……。
翻訳して自国の発展に活かすべきだったのでは?
当時のバグダードは世界一の文明都市といっても過言ではありませんでしたから、ここまで破壊せずとも良かった気がします。
特に書物の類は、翻訳させて自国の発展に活かしたほうが良かったでしょう。
しかし、モンゴル軍は「降伏すれば許してやるが、抵抗するなら徹底的に破壊する」という方針ですから、このような惨事になってしまったのです。
皮肉なことに、これってイスラム世界のモットーと少し似ているんですよね。
いわゆる「コーランか、剣か」というやつです。
現在、この標語(らしきもの)は「そういう人もいたかもしれないけど、たぶん一部だろう」とみられていますし、実際には人頭税(ジズヤ)として税金をより多く納めれば異宗教でも認めていた分、イスラムのほうが有情でしょうか。
ともかく、これによりイスラム世界の文化は一時途絶えかけてしまいます。
しかし、エジプトにあったイスラム国家・マムルーク朝がモンゴル軍を押し返し、なんとか危機を脱する事に成功します。
もしそうなっていなかったとしたら、イスラム文化や中東事情は全く違ったものになっていたでしょうね。
長月 七紀・記
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【参考】
バクダードの戦い/wikipedia