1818年(日本では江戸時代・文政元年)2月5日はスウェーデン国王カール14世ヨハンが即位した日です。
現在のスウェーデン王家・ベルナドッテ家の創始者でもあります。
何やら妙なお名前ですが、これは彼の来歴に由来しています。さっそく生涯を追いかけてみましょう。
例によってコロコロ名前が変わっているのですが、ややこしいので「ヨハン」で統一しますね。
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生計を立てるため17歳で仏軍に入隊
ヨハンは、フランス南部にあるポーという町で、1763年に生まれました。
「何でフランス人なのにスウェーデンの王様になれるの?」という疑問を抱いた方も多いと思われますが、ヨーロッパってそんなもんです。
理由は以下で詳しくお話していきますね。
母親とあまり仲が良くなかったらしく、長じてからは一度しか帰らなかったそうです。今でも生家の建物は残っていて、フランス国旗とスウェーデン国旗が掲げられています。
ヨハンが17歳のとき父親が亡くなったため、生計を立てるためにフランス軍に入りました。そして、革命の中であちこちを転戦し、順調に昇進していきます。
一時期はウィーン大使や陸軍大臣になったこともあるくらいですから、若い頃から優秀だったのでしょうね。
また、背が高くてイケメンだったことから「美脚軍曹」と呼ばれていたとか。……まあ、背が高ければ足も長くなるとは思いますけれども、こんなあだ名つけられても嬉しくないような気が……。「美脚軍曹が来たぞー!!」とか言われてもねぇ。
まあ、ヨーロッパのあだ名のセンスって理解し難いものが多いですよね。
軍規を違反した者は罰し、被害を受けた家には弁償を
彼が評価された理由の一つに、軍律を重んじたということがあります。
フランス革命中の軍隊は、悪い言い方をすれば庶民の寄せ集めの部隊が多数派でした。そのため逃亡・脱走兵も多かったのですが、ヨハンは同輩が逃げても踏みとどまり、部隊に残っていたのです。
指揮する立場になってからは、「規律がない軍隊は勝利を活かすことができない」として、一般人への略奪・暴行を禁じました。違反した者は罰し、被害を受けた家には弁償をしています。これは当時とても珍しいことでした。
この方針は彼にとってとても重要なもので、一時期「ヨハンの軍が略奪をした」という新聞記事が書かれた際、激怒して「政府があの記事を撤回させないなら軍を辞める」と言い出しているくらいです。
……禁じないとこういうことが起こってしまう、というのがアレですが、当時は「戦争中なんて皆気が立ってるし、具体的に恩賞をいつやれるかわからないから、仕方がない」と思われていたのです。
むしろ、第二次世界大戦くらいまではこの考え方が主流な国も少なくありませんでした。
フランス政府もそうだったので「何でヨハンはあんなに怒ってるんだ?(´・ω・`)」と思っていましたが、ヨハンがあまりにもガチなのでちゃんと対応したそうです。
部下に優しいだけでなく軍事能力にも優れていた
とはいえ、厳しいだけでなく、傷病兵の世話や食料の補給などにも気を配っていました。
ヨハン自身も食い扶持を得るために軍に入っていますから、兵が同じような境遇であることをきちんとわかっていたのでしょう。
もちろん人心掌握だけでなく、戦略においても成功を収めたからこそ慕われたのです。
オーストリアとの戦いで撤退する際、数倍のオーストリア軍を相手に見事撤退戦を指揮しています。
自ら殿(しんがり)を勤め、大きな被害を出すことなく終わらせました。
ナポレオンとは反発したこともありましたが、一度和解して彼の下で数々の戦争に従軍。結局、反りが合わないままだったようですが、これがヨハンの前途を開くことになります。
当時、王位継承者がいなくなってしまっていたスウェーデンが、ヨハンへ「ウチの将来の王様になってくれませんか」と言ってきたのです。
元の身分が高いほうではないヨハンに、なぜそんな話が来たのか。
やはりナポレオンのもとで戦功を重ねたことが一番の理由でした。
また、スウェーデン軍と戦って捕虜を取ったとき、指揮官を含めた全員を丁重に扱ったことがあったので、好感を得ていたと思われます。
さらに、ヨハンの奥さんとナポレオンの兄の奥さんが姉妹だったので、ボナパルトけとは義理の親戚でもありました。
そういった様々な理由があって、フランスとの関係改善を望んでいたスウェーデンは「貴方に来てもらえたら嬉しいな!」(※イメージです)とアプローチしてきたのです。
奥さんはかつてナポレオンの婚約者だった!?
一方、ナポレオンはといえば、ヨハンの才能や人物を警戒していました。有能な人をいかにうまく使いこなすかが君主の役目だというのに、ライバル視してしまったのです。
ヨハンの奥さんがかつてナポレオンの婚約者だったことも、多少影響したかもしれません。
そんなこんなでフランスでの居心地が悪くなっていたヨハンは、スウェーデン王家の申し出を快く受け、ナポレオンの許可を得てスウェーデン王家の一員に。カトリックからプロテスタントに改宗し、名前もカール・ヨハンと改めました。
その後は王太子兼摂政として、老体のスウェーデン国王・カール13世を支えます。
それまでのスウェーデンは、ナポレオンに奪われていたフィンランドを取り返すために動いていたのですが、ヨハンは「もうフィンランドを取り返すのは無理だ。別の土地をどうにか奪おう」と考え、外交方針を変えます。
そして、おなじスカンジナビア半島のノルウェーを得るのが望ましい、という結論を出しました。
ロシアやイギリスと同盟を結び、「ナポレオンに勝ったらノルウェーをもらう」という約束を取り付けて、対ナポレオン同盟(第六次対仏大同盟)に参加。ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で勝利を収め、約束通りノルウェーを得ることに成功します。
こうしてスウェーデンとノルウェーはしばらくの間、同じ王様を戴く同君連合となりました。
「よそ者の王朝なんてすぐポシャるでそ」
ナポレオンがエルバ島から脱出してからは、表立って対立はせず、静観にとどめています。
そのため戦後処理では大きな特をすることはありませんでしたが、イギリスから100万ポンドを得たことで、かねてから考えていた債務処理や公共事業の資金としました。
そして1818年のこの日、カール13世の死を受けて、ヨハンはカール14世として即位したのです。
当時は諸国から「よそ者の王朝なんてすぐポシャるに決まってる」と思われていたようです。
が、スウェーデンの国民と議会は新しい国王を熱狂的に支持しました。特に、憲法で王の権限を自ら制限したことで、ナポレオンとは違う先進的な王であることを示したのが大きかったようです。
即位してからは、自国がロシアとイギリスの間にあるという地勢を活かし、緩衝帯・中立地域を保つための政策を採っています。現在も北欧諸国は紛争に関与しない中立国が多いですが、これはヨハンの政策によるところも大きいということですね。
国内の食料自給を改善し、インフラ設備を整える
戦争にかかわらなければ、それだけ内政にお金をかけることができます。
財政の立て直しや産業の振興、学校や病院などのインフラ整備に力を注ぎました。特に農業改革については、彼の時代に大きな成功を収めています。
当時のスウェーデンは国民の80%が農民であったにもかかわらず、食料自給率がとんでもなく低かったので、これを是正する必要がありました。
そこでヨハンは、スウェーデンの国土に合った品種改良や、開拓などを推し進めています。
結果、ヨハンが亡くなる1844年までに、スウェーデンの人口は100万人以上も増えたそうです。
晩年は議会との対立や民衆からの批判もあったようですが、それ以上に政策での成功例が多かったため、反乱を起こされるようなことはありませんでした。息子である王太子オスカルの人気が高かったことも影響しているかもしれませんね。
ヨハン自身はスウェーデン語を完全に習得することはできませんでしたが、オスカルは少年期にスウェーデンにやってきたため、息子のほうがスウェーデン語が得意でした。
そのこともあり、息子のことは頼りにしていたようです。
そして彼に始まるベルナドッテ王朝は、他のヨーロッパの王家が次々と実権を失っていく中で、今日まで存続することになるのです。ここもまた、ナポレオンとは対照的ですね。「地元を離れて実を結んだ」という点では、徳川家康にも似ているでしょうか。
一気に英雄になるのと、子々孫々まで地位を保つのと、どちらがエラいとは言い切れませんが、好対照で面白いものです。
長月 七紀・記
【参考】
カール14世ヨハン_(スウェーデン王)/Wikipedia