これをわかっていて焦土作戦&冬を待ったアレクサンドルが恐ろしいですね。
フランスに帰り着いたとき、兵はたった5000人になっていたとかで、生存率0.007%ってどういうことなの……。
むろんロシア側も無傷ではありません。
戦場となった地域のロシア人も数百万人が犠牲になったといわれています。
その代わりに、アレクサンドルは対仏大同盟の復活という成果を手に入れました。
他のヨーロッパ諸国が
「ナポレオンを倒すことができるかもしれない」
と考え始めたからです。
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仏軍に勝ったロシアだが、自国の状況に焦りを感じる人も
ロシア遠征までのナポレオンといえば、ほとんど負けたことがありませんでした。
例外はトラファルガーの海戦ですが、これは海戦でありナポレオン本人は現地にいなかったので、イギリスが自国防衛に成功した以外の意味がありません。
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兵を大幅に失ったナポレオンは、再び包囲されて絶体絶命に陥ります。
そのうち部下にも裏切られ、無条件に退位させられました。入れ替わるかのようなタイミングで、アレクサンドルは兵を率いてパリへ入っています。
この時も「計画通り」な顔をしてたかもしれませんね。
その後、アレクサンドルはウィーン会議で主導権を握ろうとし、理想主義な彼に賛同する他国はほとんどおらず、(´・ω・`)な結果になります。
その代わり、領土としていたポーランドやフィンランドに対し、ある程度の権力や議会を与えて先見性を示そうとしました。
一方、ロシア国内では少しずつ自国の状況に焦りを抱く人が増え始めました。ヨーロッパの他の国に比べて、遅れていることを実感したからです。
大学を閉鎖したり学問を禁止したり
古今東西、こういうときには漸進派から急進派まで入り乱れるもの。
後者の最たる例では、アレクサンドルの暗殺と帝政の廃止を目論む者まで現れました。
このせいでアレクサンドルは自由主義弾圧を始め、大学の閉鎖や一部の学問の禁止など、どんどん他国と逆行するような政策を取ってしまいます。
ロシアとの戦争で荒廃した国土の回復なども試みたものの、人選ミスのためか成功とは言いがたい結果に終わりました。
何もかもうまく行かない――。
そんな状況に絶望したのか、アレクサンドルは少しずつ政治から関心を失っていきます。
信頼する貴族に仕事を任せ、半ば引きこもりになり、聖職者を呼び寄せては信仰の世界に生きる素振りすら見せてしまいます。
ロシア皇帝と聖職者というと、これまた嫌な連想をしてしまいますが、アレクサンドルはこのせいで命を落としたわけではありませんでした。
旅先でチフスにかかり48才で死亡
1825年の秋、肺病にかかっていた皇后エリザヴェータとともに、アレクサンドルは黒海北方の町・タガンログへ西洋に出かけました。
この二人は長らくまともな夫婦生活をしていませんが、この頃には和解し、お互い慈愛を持って接するようになっています。
しかし、遅すぎた新婚旅行と言えなくもないこの旅行で、付き添いだったはずのアレクサンドルがチフスにかかり、旅先で亡くなるという悲劇が起きてしまいます。
アレクサンドルはまだ48歳でしたから、暗殺疑惑も当然囁かれました。
または「アレクサンドルは、死んだふりをして世俗の一個人になった」ともいわれています。
真相はやはりわからないものの、アレクサンドルが後継者をはっきり指名しないまま世を去ったために内乱が起き、ますますロシアは他国に後れを取ることになりました。
ロマノフ王朝の最後を知っていると、せめてこの時代から少しずつ近代化していれば、助かったんじゃないかとも思ってしまいます。
長月 七紀・記
【参考】
アレクサンドル1世/wikipedia