ルイ16世

ルイ16世/wikipediaより引用

フランス

無実の罪で処刑されたルイ16世なぜ平和を願った慈悲王は誤解された?

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ある意味ナポレオンよりも軍事的センスがある?

ご存じ、希有な軍事的天才ナポレオンと、ルイ16世を比較した時点で「オイオイそりゃちょっとないんじゃないの?」と思うかもしれませんが、これには理由があります。

ルイ16世の時代、古くからの宿敵であるイギリスとの戦争は、ヨーロッパ大陸ではなく新世界に移っていました。

そんな中、以前にも増して重要になったのが、海軍力です。

伝統的に強いイギリス海軍に対抗するためには、フランスも海軍改革をせねばならない! ルイ16世はそう考え、刷新に着手しました。

歴代のフランス君主が海軍力増強に関心を持ちませんでしたが、ルイ16世は違います。

「これからは強大な艦隊を持たねばならない」

海図をじっと睨み、細かい指示を与え、将校だけではなく乗組員の境遇にも関心を寄せていたのです。さしずめ「動かざる航海王」といったところでしょうか。

彼の正しさは、フランスの支援を受けたアメリカが、独立戦争に勝利するという形で実りますが、そのあとにも皮肉な形で証明されることになります。

フランス革命の後、ルイ16世の海軍改革は水泡に帰しました。

革命の影響を受け、貴族階級が多かった海軍士官は亡命するか、処刑されるかして、ごっそりと抜け、弱体化したのです。

革命後にのし上がったナポレオンは宿敵イギリスを倒すべく動くものの、そのたびに「木でできた壁」(木造戦艦=海軍が行く手を阻む)ことイギリス海軍が行く手を阻みました。

ナポレオンは陸軍の指揮においては無敵の強さを誇りましたが、海軍についてはまったくの素人でした。

それにも関わらず、自分の思った通りにしろと海軍士官に命令したため、かえって現場は混乱。海軍力を欠いたため、ナポレオン率いるフランスはイギリスに打撃を与えることができません。

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この点、宿敵イギリスに対抗するためには海軍力こそ必要であると見抜き、改革を行ったルイ16世の方が優れていたと言えるのではないでしょうか。

また、ルイ16世はアメリカにとっては独立に尽くした恩人とも言えます。

独立記念日には、アメリカ大使が独立戦争の英雄・ラファイエットの墓地に花束を捧げるのも、こうした背景があるからです。

とはいえ、そのラファイエットをアメリカに派遣したルイ16世に対しては、アメリカでもあまりよいイメージがないようです。

ハリウッド映画でも伝統的な愚鈍な暗君で描かれることがあります。これはちょっと酷いんではないの、と個人的には思ってしまうんですよね。

 


無能で民衆の苦しみを知らなかったのか?

ルイ16世は、庶民の家を散歩がてらに見て回る趣味がありました。

この王の習慣はアンリ4世以来途絶えていたもので、庶民の生活を知るためには欠かせないものでした。

しかも、ただのポーズではありません。彼は民の苦しみに理解を寄せる心優しい人物だったのです。

即位後には、拷問や農奴制度を廃止。人道的な政治を目指しました。

様々な障害に阻まれ政治改革は頓挫してしまったものの、責任感を持ち世界をよりよくしたいという善意を常に持ち合わせていました。

前述の通り、革命勃発の夜、日記に「何もなし」と記載したことが彼の愚鈍さ、民衆への無関心さとして取り上げられることがあります。

これには注意しなくてはいけません。

ルイ16世は就寝前に日記を書きました。革命が起こったのは、王の就寝後でした。

つまり、その日に何かあっても書きようがなかっただけに過ぎません。

バスティーユ襲撃/wikipediaより引用

前述の通りルイ16世は、アメリカ独立戦争に協力を惜しみませんでした。

これにはもちろん、宿敵イギリスから植民地アメリカを独立させ、打撃を与えるという外交的な意味もありました。

それだけではなく、ルイ16世は民主政治を求めるジョージ・ワシントンらの理想に共感し、憧れる気持ちもあったのでしょう。

崇高な精神とはいえ、これは危険なことでした。

フランス革命後、周辺諸国の君主は革命が伝播することを恐れ、民主主義に嫌悪感を示しました。

ルイ16世も彼らのように、民主主義がいつか自らの玉座をもおびやかしかねないと、毛嫌いしてもおかしくはなかったはずです。

彼は国王でありながら、理想の政治、民のための政治に憧れていたのです。

このことこそが彼の究極の優しさであり、命取りにもなる部分でした。

 


フランス国民は王を憎んでいたのか?

ルイ16世を語る上で解かねばならない最大の誤解は「民から嫌われていた暗君であった」ということです。

庶民の家を散歩するのが日課で、民主主義にあこがれを抱き、政策においても民のために譲歩した国王を、民衆も慕いました。

贅沢三昧にふけったルイ14世、政治にも民の生活にもまったく関心を抱かなかったルイ15世とは違ったのです。

浪費癖で嫌われたマリー・アントワネットとは異なり、ルイ16自身はヴァレンヌ事件(1791年)で逃亡未遂が発覚するまで、民衆に嫌われていたわけではありませんでした。

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しかし、ルイ16世の民衆への寛大さが、皮肉にもそれが革命の勃発や進行の一因ともなりました。

彼は民衆の要望に応じて高等法院を復活させ、三部会を開き、その声を聞こうとしました。そんなことをせず、権力で民の声を握りつぶしていたならば、革命の芽を詰むことに成功したかもしれません。

フランス国旗のトリコロールは、「自由・平等・博愛」という革命の精神をあらわしているとも言われていますが、正しくはありません。

パリ市民軍の色青と赤で、王家の白を挟んでいるのです。パリ市民と国王の協調が本来の意味でした。

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