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【ルイ16世】
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罪を犯したから処刑されたのか?
1792年、王権が停止され、ルイ16世は王ではなく「市民ルイ・カペー」となりました。
革命家たちは国王をどうするかで激論を戦わせました。もしもルイ16世が暴君であれば、結論はもっと簡単に出たことでしょう。
しかし、彼自身に罪がない。
そこで処刑の理由は、王制そのものに向けられました。
「ルイ・カペー本人に罪はないが、国王という存在は民主主義の敵である」
それでもなお、穏健なジロンド派はじめ、多くの革命家たちは国王の処刑に反対しました。
国王を処刑するかどうかの決戦投票でも、結果は賛成361票に対して反対は360票。処刑が決まったのはごくごく僅差だったのです。
1793年1月21日。処刑人サンソンは前夜一睡もできませんでした。
人類史で2番目に多くの首を斬ったアンリ・サンソン あまりにも切ない処刑人の苦悩
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が、処刑される国王自身はたっぷりと眠った、と周囲に言いました。
そして処刑台にあげられる前、彼はこう言いました。
「私は無実の罪で死にます」
続けて……。
「私は、私の命を奪う者たちを許します。あなた方が今こうして流そうとしている血が、フランスに注がれぬよう、私は祈りを捧げます」
処刑を見るために押し寄せた群衆の騒ぎにかき消され、その声を聞いた者は少なかったことでしょう。
しかし、この短い最期の演説は歴史に残ります。
革命後もフランスで流れ続けた血
ルイ16世の処刑のあと、その敵意は彼の妻、子、妹らにも向けられました。
流血がなければ革命は成し遂げられないとでも言うように、容赦なく血は流れ続けました。
民衆に追い詰められながらも、最期までルイ16世は彼らを気遣いました。
しかし彼の祈りは届かず、恐怖政治、ヴァンデの反乱、フランス革命戦争、ナポレオン戦争と、フランスはこのあとおよそ30年血を流し続けることになります。
君主としては民衆を愛し、夫としては妻を愛し、慈悲深く聡明でもあったルイ16世。
その国王と王妃を処刑し、王子を無残な幽閉死に追いやったことは、フランスの歴史上の汚点かもしれません。
国王としてイメージされる偉大さに欠けたためか、現在においても彼の評価は「イマイチ冴えない気の毒な王」として記憶されています。
あまりに雄々しく描いてもそれはそれで彼の実像とはかけ離れてしまいますが、愚鈍なぽっちゃり王というイメージからの脱却をそろそろはかるべきではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
ジャン=クリスチャン プティフィス『ルイ十六世 上」』(→amazon)
ジャン=クリスチャン プティフィス『ルイ十六世 下』(→amazon)
ベルナール ヴァンサン/神田順子『ルイ16世(ガリマール新評伝シリーズ 世界の傑物 3) 』(→amazon)