1817年7月14日は、アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタールが亡くなった日です。
通称「スタール夫人」という女性作家・批評家で、当時は珍しい女性の知識人でした。
高校で世界史を選択していた方でも「長ったらしい名前の割に、あまり印象に残ってないなぁ……」という印象かもしれません。
というか、歴史の教科書にはほとんど出てこないのですが、それではもったいない!
彼女はなかなか強烈なキャラクターで、ぶっ飛んだ行動を繰り返し、歴史を楽しくしてくれる人物の一人と言える。
中高生には教えづらい言動もしているので、そのせいで掲載されないのかもしれません。
ではスタール夫人とは一体どんな人物だったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
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20歳で結婚するもスグに別居 文壇デビューを果たす
スタール夫人は1766年、スイスの政治家・財政家であるジャック・ネッケルの娘として、パリで生まれました。
父ネッケルは1777年にフランスの財務総監に任じられ、宮廷の財政を引き締めたことにより、民衆に絶大な人気を得ていた人です。
結果、貴族やマリー・アントワネットには憎まれましたが……この辺のことはスタール夫人とはあまり関係がないので割愛しますね。
「ブルジョワ層の出身である」ということだけご記憶ください。
幼いうちから父に連れられて哲学者や文学者のサロンに出入りしていったスタール夫人。
おそらくサロンで交わされていた男女論や結婚に関する価値観も、耳に残ったことでしょう。
20歳のときに、パリ駐在のスウェーデン大使・スタール=ホルシュタイン男爵と結婚しますが、2年で別居して、あまりうまく行っていなかったようです。
当時のフランス貴族の常識である
「夫婦で出かけるのはみっともない」
「愛人がいて一人前」
といった状況が影響したのかもしれません。
別居とほぼ同時、22歳のときにスタール夫人は『ルソーの性格および著作についての手紙』を発表し、文壇デビューを果たしています。
彼女の知識や知恵について、夫が「女らしくない」と思ったのが不仲のきっかけだった……というのもありそうですね。
スタール夫人は夫を捨てたものの、その立場までは捨てませんでした。
フランス革命時は”外国大使の妻”という立場を活かし、処刑のターゲットになりそうな友人たちを救ったのです。
タレーラン(フランスの貴族・謀略が得意で外交術は評価が高い)などと親しくなり、愛人関係になった人もいたとか。
時代と文化が違うとはいえ、貞操観念……と言いたいところではありますが、彼女は革命に関しては穏健派でした。
そのため過激派から反感を買い、パリにいづらくなってしまいます。
政治活動に勤しむ一方「小説論」がゲーテに絶賛される
パリから離れたスタール夫人は、父の領地であるスイスのコペという町に亡命。
その後も度々パリに出入りしていたようなので、彼女なりの正義感や政治的理念を貫こうとしたのでしょう。
彼女は、革命によってフランスが「穏健で平和的な立憲君主主義」になることを目指していました。
色々な人と愛人関係となったのも、彼女にしてみれば、政治の世界に物申すため”女性である”ことを最大限に活用したというだけのことかもしれませんね。
もしも世代や立場が噛み合えば、ブルボン家に乗り込んでいって王や王妃を説得し、立憲君主制へのソフトランディングを主導した……かもしれません。
ルイ16世とマリー・アントワネットに立憲君主制を受け入れさせるのは大変そうですが。
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スタール夫人は29歳のとき『小説論』でゲーテに絶賛され、文壇で再び注目されました。
名声が手に入れば、世の中に意見を言うのは造作も無いこと。
革命が次第に過激化していくことを憂いて、マリー・アントワネットの助命を主張したりもしていました。
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