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【スタール夫人】
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「ナポレオンの入浴中に浴室へ押しかける」とは!?
33歳で正式に離婚してからは、いよいよ活発に動き始めたスタール夫人。
この頃はタレーランの愛人となっており、彼が政界に入るための窓口を果たしました。
人の実力を見抜く力を持っていた彼女が、次に目を留めたのがあのナポレオン・ボナパルトです。
しかし焦りすぎたのか、スタール夫人は「ナポレオンの入浴中に浴室へ押しかける」という強引過ぎる手段を取ったためドン引きされてしまいます。まぁ、そりゃそうやろ……と。
彼女いわく「二人の天才が結ばれればフランスの国益になる」だそうなのですが……他に手段は……?
ナポレオンは信仰心の厚い方ではありませんでしたが、一応、実家はカトリックですのでそうした価値観は残っていたでしょう。
ジョゼフィーヌにも「浮気はやめてよ泣」(超訳)と言っていたことがありますしね。
ちなみにスタール夫人は、この件よりも前にタレーランへ「ボナパルトは私より賢いでしょうか」と尋ね、こんな風な返答をもらっています。
「あなたほど厚かましくはないですね」
答えになってない上にずいぶん失礼な話ですが、なぜか彼女はこの発言の意味が理解できなかったようで。
そのうちナポレオンが全く自分を認めてくれないとわかると、スタール夫人は次第に反ナポレオン派になっていきます。いや、それって逆恨みですよね……。
ナポレオンに追放され、反対運動で同志を募る
スタール夫人はその後の著作で、ナポレオンに対し、当てつけに近い記述を繰り返しました。
特に小説『デルフィーヌ』でカトリックの迷信性などを書いたため、ナポレオンの怒りを買ってパリを追放されることになります。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とはいいますが、現代のストーカー事件等でもみられてしまうような「嫌がられてでも自分を意識してほしい」という気持ちがあったのでしょうか。
しかし、彼女はその程度のことでへこたれません。
ドイツやイタリア、オーストリアを旅し、反ナポレオンの同志を多く獲得。
途中コペに一度戻り、サロンでの交流も熱心に行いました。
特にナポレオン嫌いだったプロイセン王妃ルイーゼや、ナポリ王妃マリア・カロリーナには歓迎されています。
ちなみにこのナポリ王妃はマリア・テレジアの娘で、マリー・アントワネットの3歳上の姉でした。
同時期に『コリンヌ』という恋愛小説も書き、何を思ったのかナポレオンに送りつけています。
おそらく最初からそのつもりで書いていたのでしょうが、作中ではイギリス人やイギリス海軍を褒めていて、それも当てつけだったのでしょうかね。うーん。
ちなみにこの小説を送りつけられた時期と前後して、フランス軍はトラファルガーの海戦でイギリス軍に負けていました。
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その後もパリでドイツを賞賛する内容の『ドイツ論』を出版しようとして、当時のフランスにとってドイツは敵国なので、やはりナポレオンの怒りを買います。
いっそドイツで出版すればよかったものを、なぜわざわざフランスのど真ん中でやろうとするのでしょうか。
再三に渡って過激な言動を繰り返すスタール夫人に対し、今度こそナポレオンは厳しい処置を取ることとしました。
本を発禁にしただけでなく、危険人物として彼女を監視させたのです。
そりゃあ、過激すぎる行動で危険視されても仕方ないレベルでしたしね。
しかし、全くめげないのがスタール夫人。
1812年に20歳下の士官と再婚すると、ヨーロッパを周遊しながら、翌年ついに『ドイツ論』を出版したのです。
さらにはロシアまで行って皇帝に反ナポレオン論を語ったり、スウェーデンで後の同国王となるベルナドットと密談したり。
1813年にはイギリスにも行き、名士たちと社交を楽しんでいました。エネルギーが満ち溢れ過ぎています。
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